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2014年11月30日日曜日

格差!?

 以前にも書きましたが、格差が止まりません。日銀の金融緩和と年金資金のバズーカ2連発はますますの格差を生み出しています。場所にも寄りますが不動産と株を持っている人だけに向いたこの政策はお金がお金を増やすという結果になっています。

 あのリーマンショックで年金資金を9兆円、あのグリーンピアで1兆数千億円失ったことは誰が責任を取るともなく過ぎあったことを忘れてしまったのでしょうか。今、米国では第二のリーマンの前夜といわれているときに、考えられない愚行なのです。

 円安は輸出にとって良いといっていますが、あくまでも数字上のものですが現金で持っている人は日本円の価値がそれだけ無くなったという事も忘れてはいけませ

 安陪政権が誕生以降1000万円以上の所得者が17万人増え、200万円以下の所得者が30万人以上増えた結果をどう捉えたらよいのだろう。母子家庭の6割が190万円以下の所得であることも疑問になるところですが、教育を受ける事の出来ない子供の数も増えています。

 皆が中流家庭と思っていた過去はもう夢の夢で先進国の中では最下位の子供の状況は単に政治の問題だけではないのですが、基本的には国の考え方が今のような若い親や戦後世代の考え方を作ったことは間違いがありません。

 勿論、資本主義の社会ですから勝者、敗者が出来ることは仕方がないことですが、社会主義的な運営もしてきたわが国ではバランスが良かった時代にはそれが機能をし、世界でも自慢の出来る国であったことは間違いがありません。

 役人が世界の中の日本を考えていた時代、政治家が自治をきちっと理解し、情熱を持っていた時代は本当に伸びたと感じた時代でした。今は役人も政治家も私利私欲で動き、責任をとることは微塵も考えてはいなく、公僕と呼ぶにはあまりにも愚劣な人種であるような気がします。

 勿論、官僚、役人は勝ち組ですが、これも変な事で、資本主義の中にいながら責任を取ることのないものが勝ち組で、これではまるで社会主義の国と同じで、いずれ滅びるということになるのではないかと思わざるを得ません。

 それでも今の若者たちは政治に参加をしようと思わず、不満と不信とストレスを社会に向けています。それを向ける先は選挙であり、まずは国民としての責任を果たすことでしょう。民主党の悪夢があるとはいえ、国民の参加で政権を変えた事実を忘れてはいけません。

 ダイヤモンドの世界でも、同じような現象が起きており、庶民用のダイヤモンドは値が弱く、資産家用のダイヤモンドに関しては以前にも書きましたが天井知らずです。

 本業はダイヤモンドですのでダイヤモンドに関して言えば、上手な扱いを日ごろからアドバイスをしているつもりですが、実際にはその方達が売ることを目的に購入をしているとは考えられません。結果的に損をしたと感じず、やはり買っていて良かったと思っていただけるところをご購入して頂いているつもりです。

 現在のダイヤモンドの世界の格差は短期的に見た場合であり、長期的に見れば総合的に購入をして頂いて損のないものをアドバイスさせて頂いています。それは経験と歴史、データーで考査をするとおのずから出てくる答えがあります。

 格差は自由主義、資本主義を是とする以上はやむを得ない経済を人間は創ってしまった訳で、それをどのようにハンドリングをするかです。

 例えば、分配方法を考えるとかいった政治力を創る民衆の力とか、知性と理性と責任といった当たり前のことを当たり前に考える力が今必要な気がします。

 ダイヤモンドビジネスを考えるとこのバランスはうまく取れていて、多くの金融がダイヤモンドの仕組みから出来上がったことを忘れないでほしいのです。このことに関しては近いうちに書きたいと思います。

2014年11月29日土曜日

ボジョレーヌーボー⁉

 昨日、一週間遅れのボジョレー・パーティーを店内にて行いました。多くの客様が入れ代わり立ち代わりお出でになり、早い方は3時半頃からで最終的には9時を回る頃まで皆さんには楽しんでい頂きました。

 ヌーボーワインを少し多めに頼んでいたのですが、ボジョレー・ヌーボーの中でもボジョレーの評論家でもあるGEORGES DUBCEUF(ジョルジュ・デュブッフ)氏のチョイスのものが好みでいつもそれらの中から選んでいます。

 ボジョレーには際立ったワイナリーが少ないのですが、その年の収穫したブドウの出来具合を確認するための試飲用ですから正直ワインとしてあまりおいしいとは言えませんが祭り好きの日本人にはちょうどクリスマスまでの繋ぎに格好のイベントかもしれません。

 特にバブルの時に盛り上がったイベントではありますが、当方のように顧客相手の商いをしているところには格好の機会であると利用をさせてもらっています。お客様にとってもお求め頂いたジュエリーを身に付けて頂く良い機会でもあり、それぞれが見せ合い、自慢しあい、褒めあいと和気あいあいとするには丁度良い機会だったと思います。

 最近では、お客様のライフスタイルもカジュアルになり、なかなかこのような機会がないと参加して頂いた方達の中からも声が上がっており、できる限りはこのような機会を増やたいと考えています。

 また、一年に一度のストックショーを行っていた最中はいえ、数人のお方が勢いもあったのかもしれませんが、ご購入をして頂いたという予定をしていなかった余禄もついてきました。

 お客様から
『普段はあまりお値引きがないから以前から狙っていたものがある時は良いわね。』
といった声もあり、良い機会だったと思っています。

 当店では一年に一度だけ商品を入れ替える前に、欧米風に常連さんを相手に軽食を出しながら全商品を対象にお値引きをさせて頂くストックショーなるものを開催しています。今年はたまたまボジョレーと重なり、別々のイベントではあったのですが結果喜んでいただいた良かったと思っています。

 クリスマスの前であったこともあり、本物のモミの木でデコレーションをしたクリスマスツリーが雰囲気を盛り上げてくれました。

2014年11月28日金曜日

奇跡⁉

 今度の日曜日に『ハヤブサ2号』が打ち上げられ、52億キロの旅に出かけます。直線距離にして約3億キロの旅は、前回のハヤブサ1号のような物語と奇跡をもたらすのでしょうか?それとも人類の計画通りに何気なく帰ってくるのでしょうか?

 人類というより生命の起源を探し求めての旅立ちですが、果たして何かを持って帰るのでしょうか?生命の起源は他の惑星から来たアミノ酸であるという説が多くを占めていますが、もしそうであるならば、アミノ酸が将来に宇宙へ自力で旅経つという事になりますが、それを実証した時点で起きうるべくして起きたことになりますから奇跡と言われた人類の誕生は奇跡ではないということになります。

 広辞苑では『奇跡』とは既知の自然法則を超越した不思議な現象で常識では考えられない神秘的な出来事となっていますので、人類が解明したことは如何なることでも奇跡とは呼べなくなります。しかし、時系列を追っていけば殆どの事が奇跡ではなくなっていくことでも、過去に起きていない現象や確率的にゼロに近い現象が起きることはやはり奇跡と言って良いのでしょうか。

 ハヤブサ2号は52億キロの旅に出てわずか900mの直径しかない惑星に着陸をする訳です。これが一般人の常識的から考えれば奇跡というほどの100メートル先から0.01mmの的に矢を射るようなものですが、プロたちからすると90%以上の確率を前提としているので奇跡でもなんでもありません。

 しかし、それらの理論の展開ではすべてが可能なように感じますが、不可能なことは確かにないのでしょうが、実際には確立として低い物を奇跡と呼ぶのでしょう。

 そこでダイヤモンドの話ですが、現在世界に宝石質のダイヤモンドで1ct以上のものは200万個ほどあるといわれていますが、これを多いと考えるべきでしょうか?世界人口が間もなく70億人に達するといわれている地球上では3500人に一人の割合で1ctが当たることになりますが、実際に購入可能な人という事になると約254,000人に一人の割合になります。

 これが、好みとかそれぞれのジャンル(形、品質、サイズ等)で分けると多分1千万人に一個くらいの割合になるでしょう。そうするとLOTO7で八億円が当たるような確率です。これが好みの物を手にするという事になるとまさに奇跡です。

 ダイヤモンドとの出会いは『一期一会』と常日頃言っているのはこのような現象を考えての事です。非常に屁理屈な展開ではありますが、それくらいの奇跡を導いていること考えて販売を心がけたいものです。奇跡の地球からの贈り物ですべての人の手に届くわけではないのですから・・・。

 何はともあれ『ハヤブサ2号』が奇跡とならないように祈っています。

 

2014年11月27日木曜日

ブルーダイヤモンド記録⁉

 先日、9.75ctsのVVS‐2、ファンシー・ヴィヴィット・ブルーのペアシェプがオークションのレコード価格で落札をされました。ペンダントになっているもので価格はUS$32,645,000(日本円約38億5千万円)もしくはUS$3,45,205/ct(日本円約4億円/ct)での落札です。

 過去最高の落札価格ですが、昨年5ctsの同じ内容のものが9億5千万円で世間を騒がせた事を考えると、わずか一年でのこの価格は驚異的と知ってよいでしょう。

 いつも書いている通り、一般的なダイヤモンドの5cts未満の値動きから考えるとかけ離れた話であると同時にダイヤモンドの世界の特殊な物のバブルは当分落ち着きを見せそうにありません。

 背景にあるものは先日も書いたように中国のバブルでしょう。社会主義の国である中国では不動産等の資産を所有することはできませんが、携帯可能なもの、昨今話題になっている赤サンゴやダイヤモンドのようなものは真に的を得ている訳です。

 特に海外の不動産や債権、証券を所有することは今の中国の資産家たちのトレンドにもなっているのは承知の通りです。基本的には不動産にお金がかかりませんからその資金がそれらの物に向かう事も理解が出来ます。

 基本的に自国の政府を信用していないという事もあるでしょうが、現在の似非資本主義は我が国の社会主義的な資本主義の大型版と言えるでしょう。それを考えるとしばらくこの状況は続くのかなという感じもします。

 特にダイヤモンドに関してはファンシーカラーを中心に彼らの標的になっていますので、大きさ問わずグレーディングレポートのカラーの最後がブルーだったりグリーンだったりするとダイヤモンドそのものを見ずに購入を決めているようです。

 勿論、中東の資産家たちも黙ってみている訳ではありませんから、ますます過熱をしていくことは想像がつきます。彼らの狙いは日本国に内在するそれらの特殊ダイヤモンドですが、日本の資産家たちも負けてはいません。

 富豪という人々は中国や中東の国々を抜いて、米国に次いで世界第2位の我が国ですから、簡単には手放しはしないでしょう。しかし、日本の資産家たちには本来のダイヤモンドの価値を理解が出来ていないので相変わらず時計等のブランドが作り上げた物に走っています。

 勿論、日本にもその事に気が付いている人々はいます。10億20億円の単位の物を探している人も幾人かいることも事実です。しかし、お金を持っているからと言って手に入らない物がダイヤモンドです。少なくなってくると今後はさらに記録を更新したダイヤモンドの落札価格が話題になるでしょう。

ダイヤモンドと日本刀と自尊心⁉

 数年前に東京国際宝飾展(IJT)において、セミナーを依頼され、『今後の日本の宝飾業』というタイトルでお話をさせていただいたことがありますが、内容からいえば今後は外需ですよという事です。

 内容的には日本の地金を扱う技術の高さや細やかさを海外に輸出をする時代だという事ですが、現在においてはリサイクルや真珠を中心に外需を行っているところが多くなってきてますが、その事自体は海外に目が向き始めたという意味ではよいのですが、意図とはちょっと違います。

 古い話ですが種子島にポルトガル人の手を経て、鉄砲が渡って来て500年ほど経つわけですが、それから数年で国産の鉄砲が生産されます。何故そんなことが出来たのかというと我が国には日本刀という優れた鉄鋼技術があったからです。最初に製作に携わったのも刀鍛冶でした。

 それゆえに、鍛造技術や切削技術が他国に比べて群を抜いていたのです。勿論当時は他国との交流が少なく、その技術が海外に流れることはありませんでしたから独自の発展を遂げたのです。

 これらの歴史的背景もあり、日本の地金製作技術は他国と比べても劣るものではないという事もあり、外需の勧めとして日本の優秀な技術を海外へという意味でセミナーではお話をさせて頂きました。

 ここで日本刀ですが、玉鋼と呼ばれる材料を何度も鍛錬をし、不純物を取り除く作業をする訳ですがその際に余分な炭素や鉄を飛ばすという作業をするのですが、それと同時に硬く結びつきの強い純粋炭素を凝縮させることにもつながります。それにより硬く切れ味が鋭いあの美しい日本刀が出来る訳です。

 他国のような単純な鋳造した刀を磨いただけの『なまくら刀』との違いはそこにある訳です。勿論他国の場合はそんなにのんびりと武器を作っている暇はないという事もあったでしょうが、相手を切るというよりたたき切るといったイメージだったのでしょう。

 ここで気が付いた方もいるかもしれませんがダイヤモンドは炭素の結晶で高温で何度も大きな圧力が掛かる事であの美しい輝きと硬さが生まれてきています。つまり、日本刀の製作に通ずるものがある訳です。

 ある種日本人の趣向に通じるものがダイヤモンドにはあるのかもしれません。地球の鍛錬の結果ダイヤモンドが出てきたのですから、手間隙といった日本人が是として認める作業が価値として
認められているのかもしれません。

 一方、最近の日本人の自尊心は海外に比べて非常に低いというデーターがあります。米国57%、中国42%と比べて日本人は7%程度の認識だそうです。バブルの頃の日本人の自尊心は
正確なデーターはないそうですが、30%を超えていたそうです。自尊心というのは決して自己中心的という意味ではなくオンリーワンの意識ですからこれを失っているという事は問題です。

 我々の扱っている宝飾品は顧客に自尊心の意識があって初めて成り立っています。それが、現状の低迷につながっているのかもしれません。自尊心というのは不安や不信といった不純物を心の中から取り除くことにより自信が生まれ、自尊心を育みます。つまり、これも心の鍛錬が必要という事につながります。

 普段業界側が消費者の不安や不信を招く行動をとっていたとしたら、当然その業界の売り上げは低迷をします。むしろ自尊心を育ませるような言動や行動が販売側には必要なのです。そうすればおのずから結果が出てきます。

 因みに、単なる鋳造による大量生産のジュエリーはなまくらとは言いませんが強度や造りの細かさには問題が出てくることは多いのですが、鋳造でも日本刀と同じように800度前後の温度に数回掛けるとか、それに耐えうるだけの質量を使用することによりそれは解消をされます。実際に付けてみるとその出来上がりの違いはすぐに分かると思います。

 『ダイヤモンドと日本刀と自尊心』これらは鍛錬により生まれます。鍛錬とは外国人がどうでもよいと思うような手間隙を差す言葉なのかもしれません。しかし、それが日本の心であり、優れたところなのだと思います。

 自尊心は販売側にも、購入側にも必要な心です。これがないと価値は単なる実用価値だけになります。宝飾業は特に必須要因ですから、お客様の自尊心を増幅するような対応と不信感を持たれないような接客を心がけることで結果が変わってくるのかもしれません。

 例はあっているかどうかわかりませんが、ウオッシュレットのような外国人にはどうでもよい、お節介を商品化できる国は他にはない特徴だと思っています。(失礼‼!お節介ではく気遣いでした。)

2014年11月26日水曜日

ブランド⁉

 最近では理解の出来ない事が多々あるのですが、一つには《アイドル》という言葉であります。本来であれば人気が出てきて他人の表現として使われる言葉だと認識をしていたのですが、最近では見たことも聞いたこともない若い子たちまで『アイドルをやってま~す。』なんてわけな解らない事を言っています。

 誰があなたをアイドルと言っているの・・と問いかけたくなるのは私だけでしょうか?

 それと同じようにいきなり何の才能も実績まない人間が『今度、デザイナーとしてやっていきます』
とか。自分が表現をするわけではなく他人がデザインを認めて一般的に認知をされて初めてデザイナーと他人が総称するものだと認識をしておりました。

 多くの実績のあるデザインをしている知人たちの口から『デザインを担当しています』という言葉を聞くことはあっても自らデザイナーですと名乗っている著名人を聞いたことがありません。

 同じようにブランドも同じようなことが言えます。ブランドには大きく分けて二つあります。一つには目印としての他との違いを表す、いわゆるマークとしてのものでこれは米国を中心に構築をされたものです。もう一つはヨーロッパや日本を中心に生まれた、いわゆる暖簾(のれん)です。

 暖簾としてのブランドは長期に渡り、同質の物を提供することによりエキスパートとして世間が認識をしたものです。つまり京都を代表するように同業同種の商いを長く継続する事により大衆の評価を受け、受け継がれてきたものです。

 最近ではプラスチックの値札やカタログを作ることによりブランドを名乗る似非ブランドが横行をしていますが、これら多くの場合は暖簾としてのブランドを気取ったものが多く、冒頭にある《アイドル》と同じようなニュアンスがあります。

 ハンバーガーチェーンや唐揚げチキンのチェーン店のようにあくまでもマークとしての他社との差別化とは違い、暖簾としてのブランドは一貫性を貫かなければならないリスクが伴います。しかし、結果としてその姿勢を消費者は評価をする訳です。

 つまり、過度な変化があったり、過度な値引きを行う事は購入していただいた人々の評価を裏切ることになるので、変わらない価値を常に意識をしなければなりません。どれと同時に時代に合わせたアレンジは必要になります。ただし、基本的なものが変わってはいけないのです。

 なぜなら、消費者は単なる見栄で購入するわけではなく、購入することの安心感やどこにお金を使っているかという自らの主張もそこには存在しますので、余程の理由がない限りは姿勢を変えてはいけないのです。

 取り扱う側は不変な価値を取り扱うという事に関してはダイヤモンドと相違はないのですが、不変の価値とお客様に対する姿勢を理解することを要求されます。それは誇りと安心とを商う勤めであります。

 歴史が証明をした本物を扱うことであり、その継続を勤めとする事であり、そして何よりもそのブランドの消費者に対して忠誠を尽くすことでもあるのです。

 ブランドは創る物ではなく、出来上がってくるものですから簡単に失してはいけない物なのではないでしょうか?

ダイヤモンド事情⁉

 人生は四季のごとく巡りめくわけですが、ダイヤモンドの市場も同じことが言えます。1940年代から1990年代にかけてはシンジケートが価格の調整やコントロールを行ってきましたが、1990年代の半ばより色々なサプライヤーが現れ(実際にはその前から存在はしますが)ダイヤモンドの供給を始めました。

 現在ではシンジケートの若干の影響はあるとはいえ大方がそれぞれの市場原理により価格が変動をしております。単純に言えば需要の多いところは値上がりをし、そうでもないところの価格は弱含みとなります。これは健康な経済現象だといえるでしょう。

 ただ、現象でけを言えばという事で、実際にはダイヤモンド其々に特徴もあり、個性もありますので4Cのグレードで括った時のデーターであり、現実には4Cの中身だけではない事は賢明なダイヤモンドマンであれば皆が知っている事です。

 近年、ずーっとダイヤモンドの値上がりについて書く機会が多かったのですが、最近では価格の低迷について述べることが続いています。これが現象であり、今後も形を変えながら繰り返すという事だと思います。

 今年に入って全体的に価格は弱含みであり、特に1ctのサイズに関してはその現象が顕著です。しかし、そのサイズの中でも低品質のところ(SI3等)は若干強めなわけですが、それぞれのサイズによっても品質ごとにその強弱は変わっています。ただ全体的に言えることは3ct以下に関しては取引所の取引価格を見る限り弱含みです。

 勿論、これは長い目で見ると1現象にすぎず、冒頭に書いた人生が如くで、今までの歴史の中でも様々なことを繰り返し、特に我が国は為替の影響もあり、他国とはちょっと違った現象も生まれていますが、ある一定の期間を過ぎる事により価格の上昇は生まれるとは思います。

 現実に現在も価格が弱含みと言ってもこちらが望むような内容のものが手に入るかと言えば、なかなか探すことも難しい状況です。特にファンシーカット、ファンシーカラーに関してはもともと手に入る可能性が低いとはいえなかなか入手は困難です。

 現在では中国においてファンシーカラーの価格に大きな動きがあり、ダイヤモンドそのものを見るというより、レポートを見てグレーディングの結果がどうかという事で中国独特の値動きをしているようです。

 現状マーケットが弱い状況で、動くことが良いのかどうかはそれぞれの判断によるとは思います。多くのまともなダイヤモンドビジネスを行っている人々は必ずしもグレードだけでは手を出しません。言葉で表現をすることは難しいのですが印象の良いダイヤモンドを望みます。

 多くの国の小売店を見ていると消費者の話をよく聞き、その人に見合ったダイヤモンドをお勧めしますので、やみくもにグレードだけではお勧めしません。人によって好みが違うし、考え方も違いますので、ある人には若干色のついたものを進め、ある人には大きさを重視しお勧めをしているようです。

 当店のお客様でもこちらがお勧めをするまでもなく若干イエロー系のダイヤモンドをあえて選ばれるお客様もいます。ダイヤモンドの市場や価格と言っても実際には千差万別でそれぞれの物により、状況が変わるといったことが現状のダイヤモンド事情なのです。

 四季が様々な彩を装い、春には芽吹き、夏には葉が生い茂り、秋には果実が実り、そして冬を迎え、同じ事の繰り返しのように見えるが決して同じ営みが行われることはありません。それはまるで我々の人生のように感じ、そしてダイヤモンドの歴史のようでもあります。

 ただ言える事は、ダイヤモンドは不変であるという事です。

2014年11月25日火曜日

ダイヤモンドの個性⁉

 ダイヤモンドは一般的に違いを表す方法としてグレーディングなる表現を使用していますが、毎度のことですが現時点でのグレード表示だけではダイヤモンドそのものを表すことはできません。

 同じように見えるダイヤモンドに興味を持つかどうかは、そのものが優れているかどうかではなく、感性にピッタリ当てはまるのかどうかが本当は重要であると考えます。

 昨日、友人たちとアメリカのヒットメーカーであった『マンハッタン・トランスファー』のライブを六本木のミッドタウンにあるライブハウスで堪能をしてきました。グラミー賞なども受賞をした1970年代を代表するジャズコーラスグループですが、残念なことにリーダーでもあったティム・ハウザーが先月亡くなったという事で急きょメンバーを補充しての来日でした。

 もちろん素晴らしいハーモニーと歌の数々だったんですが、やはり何か違う感じがしたのは、やはりオリジナルではない違和感があったような気がします。メンバー4人のうち3人はオリジナルなのですが微妙なニュアンスを感じたのは私だけではないと思います。

 つまり、感性というのは素晴らしいという事とそれぞれの人の琴線に触れるという事は別の事なのです。ダイヤモンドに関してはほぼ同じように見える丸いダイヤモンドが素人である消費者にさえ比べてみると違って見えるのです。

 ただ多くの場合は其れに気が付く機会に恵まれていません。なぜなら、沢山見ているはずの販売員も実際にはよく見ていないからその説明が出来ないのです。ましてやファンシーカットダイヤモンドになるともっと解りやすいのですがこちらは見る機会が少ないのです。

 もっとダイヤモンドをよく見てもらい、ダイヤモンドの個性を知らしめるにはどうしたらよいのだろうと考えると、枠にはまったグレードという物よりは表現に限界のないソムリエ的な存在が必要なのではないでしょうか。

 ダイヤモンドの知識を浅く持っているダイヤモンド鑑定士なる人より、ダイヤモンド・ソムリエなる人材の育成を行ったらどうなのだろう。本来のダイヤモンドの魅力を消費者の理解の出来る部分での表現であったり、目で理解の出来る表現であったりをできる人を育てることが急務な気がします。

 ダイヤモンドのグレードはいくら説明しても販売員ですら理解が難しいのですから、消費者にはもっと難しいし、購入の機会はあまりありません。そこで消費者が理解できる表現でダイヤモンドを説明することが出来ればもっとダイヤモンドが理解をされるのではないかと考えます。

 実際に興味を持って見ている人にはよく解ると思いますが、ダイヤモンドの個性は多種多様です。カットが整っていても光らない物やものすごく光っているのにル-ぺを通してみると、エッと驚くような物まで様々です。

 昨夜の経験は自らの中にある感性と違和感こそあったのですが、1960年代70年代80年代と耳に聞き覚えのある曲を心地よい気持ちで聞くことが出来ました。しかし、素晴らしい歌を聴くこととオリジナルへの郷愁とは別なのだとつくづく感じました。

 やはり、個性という物は一寸ずつの違いが構成をするもので、それを堪能することが一つの楽しみなのだと改めて感じました。そこにビジネスに置き換えることのできる付加価値があるのだと感じる訳です。

2014年11月24日月曜日

今、必要な事⁉

  工場で作ったものはどんなに優れていても売れる訳でない。売るためには消費者にとって必要な物でなければならないわけです。

 需要と供給の中には実質的物と価値のものと観念的価値のものがありますが、実質的に必要なものは理解しやすいのですが観念的に必要な物とはここによっても違うので非常に難しい訳です。

 宝飾品はその間にあり、着飾るという実質的な価値と美的感覚やプライド、満足感といった観念的な価値がある訳です。これは強みなのかもしれませんが厄介でもあります。

 実質的、観念的なものに共通するものがあります。それはプロモーションとマーケティングです。実質的な物にはモニニタリングだったり、リサーチといった調査という手段がありますが、観念的の物にはそれがあてになりません。

 必要性と趣向性を作り出しプロモーションをかける事により市場を作り出す作業が観念的な市場には必要になります。言葉としては当てはまるかどうかが疑問ですが、ツボ売り商法がこの典型ではないでしょうか。

 つまり、精神的に追い込み、それから逃れるにはツボを買うしかないという思考に追い込むわけですが、インチキ宗教がよく使う手です。しかし、前にも書いたことがありますが、TVショッピング等で掃除機を売る時にも同じような手が使われます。

 プレゼンで布団やカーペットを掃除するとダニが何万と取れました。あなたの布団やカーペットにおいても同じよなものです・・といったようなプレゼンをし、不安がらせて購入動機を起こさせる訳です。これは実質的な物にもつながる訳ですが一つの例です。

 宝飾品は両方の特徴を有するわけですが、精神的にというより実質的必要性、つまり使用機会を増やしてあげたり、装着方法のアイディアを提供したりといった事が必要になります。その為にも販売側が多くのその類の知識や経験を持つことが必要で、自分が経験をしたこともない者をお客様には提案ができません。

 一番にパーティーや集会等の機会を作り出すことやそのきっかけを作り出すような作業としては販売側には必要な行動なのではないでしょうか。自分が必要と思ったこともない物をお客様に販売するような仕業はなかなか出来る事ではありません。

 買いやすさを提案することも重要なことですが、それ以前に必需性を創り出すことがその前提にある訳です。冒頭に書いたように優れているかどうかとか、安いかどうかではなく必要かどうかが重要なのです。商いの基本なのです。

 実質必要でなくて、高価で、小さくて綺麗なだけの宝飾品を必要だと思ってもらえるにはどうすれば良いかを常に考える事が現在必要なことではないでしょうか。間違ったことを追求してみてもその場限りになることは目に見えています。

  誰もが手に入る方法で、誰もが手に出来るものには既に宝石としての価値はありません。その様なものを我々は商っています。それを忘れてはいけません。

 そして、それが我々の生業なのですから・・・。

生業⁉

 またまた、健さん話題になりますが、著書の中で『生きていくために俳優を始めたが難しいもので何事も生業にしようと思うと簡単ではない』と述べているそうです。

 その中で『俳優は映画という短い旅を繰り返すもので、一つの物語という旅を終えるごとにどれくらいの生き様と感動を見ている人に与えれたかといつも考える』と言っていたそうです。

 我々、ダイヤモンドや宝石を生業とする人間は何を価値として伝え、見合った報酬を手にしているのかどうかという事をついつい考えてしまいました。

 ダイヤモンドというものを掘り出すという作業をするものにとっての報酬は当然あり、研磨をする人間にとっての報酬もあり、それを仕分けして送り出す人間の報酬も見合った率の報酬はあると考えます。流通の川上から、川下に行くほど利益というものは大きくなっていくのですが、結論から言うと小売業では取っている利益ほどの価値を消費者に伝えているのだろうか?

 物作りをする人間は作るという作業とその技術に対しての報酬があり、その材料が木材だとするとその木材を切り出す人間の報酬も当然ある訳です。

 ダイヤモンドは掘り出された時点ですでに実質価値がある訳ですが、それ以上の価格に乗るものは付加価値なわけです。それぞれの段階で見合っただけの価値感、つまり歓びや誇りといった付加価値をちゃんと消費者に提供しているのだろうか?

 特に小売業というものは利益の享受が一番多いところです。つまり、流通の段階でいえば一番付加価値を消費者に提供をしなければなりません。得ている利益に見合ったプライドや歓びを消費者に与えるだけの努力をしているのだろうか。自らも含めて疑問に思う事があります。

 生業とは自らが人生を送るうえで必要な物を手に入れる業という事になる訳で、つまり、生計を立てる手段という事ですからプロフェッショナルという事とイコールでもある訳です。

 理屈っぽくなりましたが、簡単に言うとダイヤモンドや宝石というものは素材そのものに頼り過ぎていて、各々がダイヤモンドや宝石の実質的価値に利益を乗せて販売する事に見合った考えを持って消費者に提供をしているのかどうかという事です。

 素材の価値があり、それにデザイナーがいて、さらに枠付けをする職人がいてこれらの人々が手間賃として利益を取ることは理解が出来る事です。製品になり、それがブランドとして広告やディスプレー等の環境づくりに対して利益が発生するのもわかります。

 単純に生業という言葉に触れて、現在の小売が得ている利益に見合った努力をしているのかどうかを省みる機会に恵まれたような気がしたのです。宝石業界が不振であるという言葉を聞くにつれ、そこが気になり、過去の多くの販売方法である値引き販売や現在の展示会販売が不振の要因としてあるのではないか・・と考えてしまうのです。

 なぜなら、価値を高めるための手段として、また努力として見合った行動をしている人々には、なかなか出会えないでいるからです。消費者は何にお金を出すのかは明白です。それは付加価値です。

 宝飾業界は付加価値を作り出すことを生業としている事をもう一度考えても良いのではないかと思います。その付加価値に嘘があってはいけないし、まやかしがあってもいけないのです。

 消費者が手に入れた付加価値を購入後も高めていく努力をしなければいけないのです。それを考えると同時に、生業と呼ぶにはまだ何かが足りないと考える気分です。

 得る利益に見合った業を成し、努力をしているかどうか? 

 もし、不振であるのならそれらが不十分なのではないでしょうか?

2014年11月22日土曜日

付加価値⁉

 一般的に付加価値とは本来、物が持っている価値に対して何らかの手を加えて出来上がった価値との差を表すものです。例えば木材を机や椅子に加工をし、木材が本来持っている価値ではなく違う価値になった時との差という事になります。

 その付加価値の優劣により付加価値の差が出る訳ですが、手作りと大量生産にはおのずから差がでてきますが、手造りが必ずしも大量生産に勝る訳ではありません。手作りの熟練度だったり、そのオリジナル性があるかないかが重要であり、またそれを認めることが出来るか否かにもよります。

 技術とはそんな中にあって、付加価値の差を非常に解りやすくするものであり、単に使い我勝手だけではなく、独自性やアイディアが詰まっている事によりその価値の差も出てきます。

 場合によってはアイディアであったり、形に関してはデザイナーの存在があり、技術者との融合によるものもありますが、一番大切なことはそれらを消費者にいかに伝えるかというマーケティングだという事です。

 宝飾業界の場合、宝石という素材そのものに既に希少性という価値があり、その上で研磨という技術が加わり、付加価値が生まれているのですが、それを打ち消すような枠づくりも存在している事も事実です。またその付加価値の伝え方が未熟である販売側の技術もまた、宝石の輝きを曇らせている部分があります。

 ブランドというのは付加価値の典型みたいに思えますが、実際には広告やメディアの露出技術の上に成り立っている場合も多くあり、現代ではそれのみみたいなブランドも多くあります。勿論その位置に来るには良質な品物であったり、独自性を持ち、なおかつ消費者に支持を受け続けた結果なのです。

 つまり、付加価値を作り上げる事はある意味、そのジャンルでの成功というゴールに向かうには欠かせない要素であり、付加価値を唯一貶めるものが、品物に対する扱いです。例えば大幅な値引きだったり、誇張や虚偽の多い販売方法です。

 販売方法を見ていると日本で1,2位を争う職人が手掛けたものですと言いながら値引きを行うといった矛盾の典型のような販売方法だったり、作った職人を愚弄するような販売方法が宝飾業界には目につくことが多いように思います。

 付加価値というものは実質的な実用品に仕上がった付加価値と感性として支持を受ける付加価値とがありますが、これら両方の付加価値を持った品物を取り扱うにはある種の経験や知識が要求されます。

 一方、ダイヤモンドのように人々が何の前提条件がなくても美しいと感じる物もあります。それらは何の説明もいらないのですが、現代のようにグレード等の少し間違った概念から入ると本物を見失う事も多いように思われます。

 概念とはある意味恐ろしいもので先入観として入り込んだ知識はある意味目隠しをするようなものですから、それを解き、まっすぐに対象物を見る事に誘う事が現代の販売員に求められることかもしれません。

 販売員が消費者が望むからとして安易にその場限りの値引き等の販売を試みる事により、更に販売を難しくすることとなり、付加価値という絶対的な品物の武器を失う事になるでしょう。

 価格は付加価値によって高低が付いている事を忘れてはいけません。価格を減じるという事はイコールその商品の価値を減じるという事になりますので、以降における販売がもっと難しくなることに例外はありません。

 付加価値というものをもう一度考えるには良い時代かもしれません。実用品以外の価格競争は決して新しい文化を創りません。文化を葬り去るのはそろそろやめにしなければならないでしょう。

2014年11月21日金曜日

王道⁉

 小田剛一、もしかしたら最も優秀なセールスかもしれない。
亡くなられた高倉健さんの本名ですが、高倉健という商品の価値をよく知り、その価値を不変のものとして、亡くなられてより価値を高めて逝きました。

 高倉健という変わらぬ姿勢と価値と品格をず~っと続けてこられた事は正に高倉健という俳優の価値を知っていたからでしょう。前科者やヤクザ物を多く演じてきた役者さんに何故か品と嗜みを覚えます。

 それはどんな役をやっていても高倉健という価値の方が役に勝っていたのかもしれません。つまり、小田剛一なる人間が高倉健という俳優の価値を不動不変な姿勢と人間として価値を極める事に、その場限りの手法や妥協を許さないといういわゆる王道を歩むことを選択したのではないかと感じます。

 実際に若者たちも高倉健さんの映画を直に見たことのある人も少ないのかもしれませんが、TVなどのインタビューを見ていても、ある種のカッコよさや憧れを感じているようでした。

 近頃では銀幕のスターであった人達がバラエティーに出たり、プライバシーを切り売りしている姿がTV上でもよく見られますが、彼らの価値を下げる事はあっても上げることはないのではないかと思います。ほとんどの若者は一タレントであって俳優としての価値を感じている人は少ないのでしょう。

 我々の宝石ビジネスにおいても同じことが言えます。ダイヤモンドは基本的に不変の魅力と価値を持っています。バラエティーで売るのか、王道で売るのかは扱う人間の価値に比例をします。

 結果としてダイヤモンドの価値を下げる事になることも理解を出来ていないように感じます。いつか宝石ではなくアクセサリーというバラエティーの世界へ貶められるのかもしれません。

 不動、不変の価値はダイヤモンドにはあります。しかし、小田剛一のようなセールスが少なくなってきたのも事実です。少なくなってきたけれど王道を誰かは守らなければいけないのではないでしょうか。

2014年11月20日木曜日

巨星逝く⁉

 銀幕のスター高倉健さんが亡くなり、連日TV番組の中で特集をされています。私自身にも高倉健さんとの思い出があり、時代が変わったことを実感しています。

 最初に高倉健さんとお会いしたのは今から40年ほど前になります。大学を卒業して社会人になり、学生時代ズ~と続けていた運動する機会も無くなり、体に歯がゆさ(表現は間違っているかもしれません)を覚えていた時に先輩に勧められて、スポーツジム通いを初めた時になります。

 当時はプライベートなスポーツジムは殆どなく、大半の人々もその存在を知らなかった頃です。アメリカ人が経営するそのジムは麻布の当時私が勤めていた会社のすぐ近くにありました。

 週何回か早朝5時から使用ができるそのジムに朝5時半頃から通い、一時間ほど体を動かし、当時としては珍しかった健康的な朝食(主に野菜ジュースとサラダそしてヨーグルト)をとり、7時半頃には出社をしておりました。

 ある時いつもと同じように、ロッカー前で着替えをしていた時です。
『後ろを失礼します。』
と、渋い声がして何気なく声の方向を見ると見たことのある人だなぁ・・と思った瞬間です。
『アッ、高倉健だ』
思わず心の中で大きな声を上げつつ、
『アッ、すみません。どうぞ』
と、平然さを装い、すれ違ったものでした。

 其れから何度かお顔を拝見する機会があり、ある時
『これから、お仕事ですか?』
と声をかけられ、緊張のあまり、
『はい、お疲れ様です。』
と訳の解らない返事をしたものですから、思わず苦笑いをされてこちらを見ていたのが印象に残っています。その後何度か会釈をする機会がありましたが、その後は会話をすることもありませんでした。

 当時は今ほど俳優さんがフランクに外を歩いていたり、プライベートを公開することはなく、我々が出会う事のない存在で、銀幕のスターそのものでしたから貴重な時間を過ごさせてもらったと感じています。

 その後私はアメリカに渡り、お見かけすることもなくなったのですが、ある時にロサンゼルスにある日系の映画館で高倉健さんが主演の映画があることを聞き懐かしさもあり、思わずその映画館ロサンゼルス松竹に足を運びました。

 その映画は『幸せの黄色いハンカチ』というタイトルで、何よりびっくりしたのは私の故郷である北海道の夕張が舞台だったことです。当時実家は時計店と土産物屋を二店営んでおり、画面の中にその2軒のお店が映った時には思わず、ホームシックにかかったことを覚えています。

 画面の中の高倉健さんは刑務所帰りの中年の役を演じたいたのですが、その前にお会いしていた時の姿とかぶさり、思わず目頭が熱くなるのを覚えました。

 何よりも高倉健さんはよく言われることではありますが、日本男子はかくあるべしといった存在で、日本では富士山のような存在そのものだったように感じています。つくづく残念でなりません。

 品格と存在感まさにその事に価値のあるような俳優さんでした。我々は大事な宝物を失ったのかもしれません。

 実直さと品格と優雅さ加えて存在感と我々の扱っている宝飾品や商っている者に正に必要な物を全て持っていたのではないかさえ感じてしまいます。高倉健という商品価値を究極まで高めて逝ったのではないかと思います。

 いずれにしても心よりの冥福をお祈りします。

 

2014年11月18日火曜日

販売と接客⁉

 前回に私が接した接客について記していましたが、その事を考え始めて少し気になっている事があります。それは接客と販売がイコールのような誤解をしていたように思うわけです。

 過去、一兆円を超えるスーパーマーケットで、今では見る影もないDスーパーについてですが、当時アメリカでは当たり前であった、セルフサービスを持ち込み価格を下げ、接客を大幅にコストダウンし、営業をしておりました。当初は珍しさもあり、アメリカ流にあこがれを持っていた世代や、実質的にその方が合理的だよねと思っていた民衆心理もそこにはありました。

 時が過ぎてくると民衆は買い求める商品の内容や使い方の説明を店員に求めるようになり、結果的にはセルフサービスの看板を落とし、店員を増やさざるを得なくなりました。しかし、一度安売りをした結果求められる物は価格の安さです。結果的には今の状況になってしまいました。

 スーパーは接客業ではなく、販売業なのですが、日本ではやはりそれが受け入れられる可能性は低く、都内でもありますが農家が通りに野菜を販売している光景が良くみられますが、それは見た目に農家の余ったものを販売するという理解をすることのできるセルフサービスです。

 一方、コンビニセンスストアは、販売業ですが店員の数も少なく元々は安売りではなく便利と時間を売っているというコンセプトがあり、誰もが説明のいらない実用品だけを取り扱っています。

 そもそも論になりますが、付加価値を商うという事は付加価値を高めることによりさらに価格に信憑性が増してくるわけですが、日本人はさらに理解が出来ない物には当然説明をする人間が必要不可欠だと思っているところがありますので、TVショッピングなぞは解りやすく説明が明確であることを求められます。更にMCたちの感じの良さ要求されます。

 どんなに美味しい料理であっても、従業員の態度が悪ければ二度と行こうとは思いません。もちろんこれには価格の問題もからんできますし、消費者の必須物であれば状況は変わります。しかし、我慢のできる範囲を超えたり、他に同じような金額で店員の感じが良ければすぐに其方に変わります。

 宝石は実用品でもなければ、価格の正当性も説明するには難しいものがあります。お客様にとっては必須な実用品でもありません。何が決め手かというとやはり接し方だと思いますが、宝石商いは基本的に接客業であり、消費者を馬鹿にしたような販売はいずれ賢明なる消費者に葬りさられる運命にあるでしょうし、それがあってはいけない業界であります。一時のグレードを表に出した安売り合戦は結果的に姿をけしつつあり、高級志向でお客様を神様扱いにするお店のみが生き残っていくことになるのではないでしょうか。

 神様扱いとはその場の言葉遣いや態度を言っているわけではありません。お求め頂いた物の価値を高めたり、プライドを保つための努力をしつつ、お客様が『あのお店で買ったのよ。』と自慢が出来るような店づくりを心掛けなければなりません。

 購入するたびに安くなっているようなお店の価格を信用しろといっても無理があります。もう買うまいとするでしょう。価格を保つという事はお客様への奉仕でもある訳です。

 接客とはお客様のプライドであり、夢を演出する事でもあります。そして、それが心を豊かにし、生活に活力を与えることになり、それが感性の付加価値でもある訳です。宝石とはまさにそれを扱っているのではないのかなと感じます。

 販売とは単なるお金と物の交換ではありますが、接客とは単なるお金と物の交換ではありません。商いをしている側の高尚なレベルと知識、誇りがあって成り立っており、消費者それに時には憧れ、時には敬い、そしてその中に身を委ねる事に至極の喜びを感じ、其れに代金を支払うものなのです。

 過去のスーパーブランドはそれが出来てい多のだと思いますし、宝石というものはそれを踏み外しタラ、何の意味もなくなります。つまり、お金を払う人がいなくなるという事です。
 
 

2014年11月17日月曜日

接客⁉

 昨日はテニスをし、その後、普段から付き合いのあるの車のディーラーの新車の発表会に招待をされ行ってきました。ホテルで行われたので会場に到着するとお出迎えが何人かいて、自分の名前を告げると一緒に受付まで行ったスタッフは私に受付の手続きをさせることもなく、フルネームと住所を代わりに記入をしてくれました。

 正直驚きました。そこまでの段取りを取っている事も驚きましたが本来であれば本人が記入をするべきものですがきちっと顧客の管理がされていることを感じさせるものでした。後ほど尋ねるとナンバープレートを駐車場まで出迎えることで確認をするという事でした。

 会場に入ると来年販売が開始されるモデルが5台ほど色ごとに展示をされており、その後、開発責任者のプレゼンテーションがあり、その後ゆっくりと見て回り、運転席に座り居住性を確認後、接客テーブルに座り、話を聞きました。

 新車は何をコンセプトにしているか等々の話の他に特徴としてジュエルライトなるレンズをヘッドライトに採用をしている事やその後試乗会のスケジュール等の話となっていったが一度も価格の話になることもなく進み、
『興味はあるけれど、幾らくらいするの?』
と問いかけると、
傍らに持っていたファイルから一枚の用紙を取り出すと、私の名前を書いて見積書があり、幾通りかの支払方法を含め、勿論新車なので値引きはないけれど、オプションのいくつかを追加しますとの事でした。

 一見当たり前のような接客ですが、宝飾業界にいて、展示会等ではなかなか出会わない事のように感じました。

 接客という事では30年ほど前に都下の有名百貨店に展示会と売り出しの事務局と立ち上げを依頼された時の事でした。各業者が社員さんに同行し、宝石の販売をするものですが、その時に一番売り上げていた社員さんは25歳の女性で売り場にもそんなに来ることもなく、同行販売をしている様子もありませんでした。

 不思議に思い、売り場を訪ねてみるとネクタイ売り場で小柄な女の子といった風情の女性がおり、名前のタッグを見るとその本人でした。

 いろいろ話をして
『外販もせずどうやって売り上げているの?』
と単純に尋ねると
『特別なことはしていません。ただお客様が売り場の前をお通りになった時に、お声をかけさせていただいています。』
という事だったのですがそんなことだけでは結果が出る訳はありません。

 詳しく話を聞くと、ノートにネクタイをお求め頂いたお客様のお名前と詳細を購入していただいたネクタイの特徴と似顔絵とともに書いているそうで、売り場の前を通るお客様をお名前でお呼び止めをして前回買って頂いたネクタイの感想を聞くようにしているそうです。

 その上で現在宝石フェアをしている事を告げ、『奥様に如何ですか?』といったお声がけをしていたようです。男性からすると百貨店のネクタイ売り場を通っただけなのに名前で呼ばれて、呼び止められて、購入したネクタイの事を若い女の子に尋ねられては嫌な思いはしません。

 結果的には売り場の電話を使ってもらい、ご自宅に連絡を取ってもらい奥様の御来場を促していただくという事です。勿論宝石サロンに来ていただいた奥様達は担当者を知りませんので、売り場で呼び出しをして、初めて対面をするという状態でした。

 前述の車のセールスをはじめ、後述の若い販売員にしても。当たり前の事を当たり前にやっているといえば、そうなのかもしれませんが、何か接客販売業の原点の話のよう気がします。

 宝石は特にそうだと思いますが、商品そのものの魅力も勿論ですが、接客の意識が購入決定の大部分を占めることは間違いがなさそうです。
 

2014年11月15日土曜日

ダイヤモンド・グレーディング⁉

 今週のダイヤモンドレポートに面白いレポートがありました。グレードは何がスタンダードなのかというものです。

 ヨーロッパのメジャーグレーディングラボとGIA(アメリカ宝石学会)のグレードの違いを示したものです。3から4段階のグレードの違いがあるという事で、その何が問題なのかという事です。

 つまり、グレードというものは公のものではないので、各鑑定機関によって基準の違いがあっても仕方がなく、その結果消費者に不利益が起きているかどうか?という問題です。

 過去数年でも何万個というダイヤモンドがグレーディングがされて市場に出回っているわけですから、総合するとどれくらいの利益の差が生まれているかという事になります。

 各鑑定機関によって同一ダイヤモンドのグレードの内容が違っても道徳の問題だけという結論付けをしていますが、価格を比べる時に同一の鑑定機関のグレードであれば問題はないと思いますが、違う鑑定機関のグレードを価格の比較対象にするのであれば各鑑定機関によって基準が違う事を公開していなければなりません。

 細かい事を言うのであればGIAにおいてもDカラーと出ていても、Dカラーの上のカラーも存在しているわけですから、基準としてDカラー以上という表現も用いていますが同一鑑定機関によっても差があることを示しているわけです。またそれがタイプⅠなのかタイプⅡなのかにおいても価値の差が出てくるわけですから明らかに同一グレードでも価値に違いがある訳です。

 結論として、ダイヤモンドのグレーディングというものは倫理上の基準であるプライべートなものであるという事です。

 日本の場合でも推定100近い鑑定会社があり、主なところでも20以上の鑑定会社がありますからその基準で統一と言っても、前提として解釈の違いがあるという基準ですから、消費者には理解が出来ない世界なのだと思います。

 その事は販売に不利とか不利じゃないとか言った問題なのではなく、販売の時に付け加えなければならない説明であることは言うまでもありません。保証というものはあくまでも販売しているところが責任を持つもので、鑑定会社が持つものではありません。価格を決めているのも販売しているところで決めていて決してグレードのより価格を決めている訳ではないのですから。

 しかし、この仕事に携わっている人間にとっても言えることですが、もしその事実を知らないといえば罪は軽いかもしれませんが、知らない事自体もプロとしては問題であろうとも思います。

 最近ではグレードに偏った商売も減ってきたように思いますが、グレードの本来の意味は販売する人間の能力の補助という前提がありますから、グレードによって判断を消費者に委ねることは販売する側の職場放棄に近いものがあるかもしれません。

 グレードは販売員の補助、つまり子供が自転車に乗る時の補助輪みたいなもので、補助輪が取れないで販売をしている人はその事を理解する必要があるのかもしれません。

 以前にも書きましたが、グレーディングレポートは保証書でもなんでもなく、単なるカタログみたいなものですから、車でいえば性能や仕様を書いているだけで本体の乗り心地とは別の問題です。

 とにもかくにも日本と同様な問題が世界でも起きている事にショックを受けるとともに、販売側は第三者の判断という逃げ道を作らずに自らの判断と責任でダイヤモンドを提供できるようになりたいものです。

2014年11月14日金曜日

街の風景⁉

 最近お店の正面にあるショーケースを覗いている若い男性が目につくようになってきました。そして季節を感じるのですが『もうすぐクリスマスだなぁ∼』と思うわけです。

 つい先日、仮装をした200人ほどの子供たちが『御菓子を下さいなぁ』と言って店内に入ってきたハロウインが随分と時が過ぎたような気がしていましたが、まだ半月ほどです。

 同伴をしていた親たちも店外から子供たちの様子というよりも、普段じっくりと見ないジュエリーをのぞき込むように眺めており、父親たちは近づかないようにしていたのが印象的でした。

 間もなく、わが町もクリスマスのイルミネーションで飾られる予定ですが、当店では店内に本物のモミの木をさりげなく飾っておく予定です。

 町の様子は一年を通して著しく変化をし、その姿、形を変えていきますが、まだこの一年を語るには早すぎるかもしれませんが、新しくお客様として加わって頂いた方達の顔を思い浮かべると季節が消費者を誘導するのが良くわかります。

 思い浮かべると気候の良い日に店頭にあるグリーンダイヤモンドが夕日に照らされ、神秘的な光を感じ、思わず入ってこられた方は、もう何年も店舗前の通りを車で通っていても歩いてこの通りを歩いて通ることはなかったそうですが、天気も良いので車を止めて歩いてみたかったそうです。

 店舗が街の風景になることは悪い事ではありませんが、過ぎると皆の意識の中から遠ざかっていきます。一定の変化を常にしていきながら季節季節の変わり目に思い出が作れるようなお店づくりが理想だと思っています。

 近くの遊歩道に桜が咲き、花弁が散る頃に日差しが強くなり、帽子をかぶり始めた子供たちの声が聞こえてくるようになると夏を迎え、街並みが白い色で映し出されるようになると暑い夏のまっただ中になります。

 白い装いの中にきらりと光るダイヤモンドを見つけると、やはりダイヤモンドの存在感は物というだけでは表せない物があり、昔の人たちも価値で計り知れないものを感じていたのだろうと思います。

 少しづつ装いの彩が濃くなっていくと同時に秋が深まり、紅葉を迎え、そしてまた子供たちの声が店内に響くハロウインが訪れます。

  多分今日も若い男性たちがショーケースを除き、今年の予算を組み立てるのでしょう。未来のお嫁さんになるのか、ただの思い出になるのかは解らない彼女の為に・・・。

2014年11月13日木曜日

展望⁉

 昨日ご来店を頂いたお客様は呉服の展示会の後でお寄りになったという事で展示会話に花が咲きました。

 お客様曰く
『びっくりしたは、ただ平台みたいなものに呉服や反物みたいなものを並べていて、呉服のショーと言っても何を言いたいんだかちっともわからない。挙句に何%OFFで特別価格でご提供しますといってもねえ~。』

 といった内容でしたが付け加えられた言葉でちょっとギクッとしました。
『どっかの宝石の展示会みたい。』
という事で、小生はその言葉を受け
『今の宝石の展示会も元々の呉服の展示会の延長にあって、宝石の催事屋さんたちは元々呉服の宝石の展示会から来た人たちが多いですからね。同じようになるんじゃあないですか。』

 『でも消費者を馬鹿にしているわね。高い値段を付けて大きく値引きをするなんて、買う方は解っているのにね。』

 現実には多くの宝石に携わる人々が口をそろえて言う言葉は『今は展示会じゃあないと数字になりませんからね』ということです。本当にそうだろうか?

 『現実』という言葉と『各論』という言葉は時として事実で正しいように聞こえますが短視眼的にみればあっているように見えますがOUTLOOK(展望)したときにはどうでしょうか?

 宝飾業界は1980年代には3兆円越え、現在は実際には5千億から6千億円程度で呉服業界は1990年代には1兆1千億あったものが現在は2千億円程度とそれぞれの売り上げを落としています。時代の流れや社会の環境によるという人もいます。確かにその側面もあるでしょう。

 しかし、展示会販売のような形が顕著なのは呉服と宝石だけみたいなもので、実際には他の業界ではあまり聞きません。私見として取ってもらっても良いのですが現在の展示会のように形になってからの業界の信用や売り上げは著しく落ちたように感じます。

 呉服業界にも同じような事が言えます。ご近所にも老舗の呉服屋さんがありますが展示会等には乗らずに専門店としてじっくりとご贔屓さんとのお付き合いを続けていますが、落ち着いた雰囲気を醸し出し、ゆっくりとした空気感があり、けっして慌てているようには見えません。

 宝石店に関しても、じっくりと専門店として営業をなさっているところは、もろ手上げてというわけにはいかないかもしれませんが、決っして悪い状況にはあるとは聞きません。勿論、元々の展示会を否定するものではありませんが・・・。

 どの状況を取ってみても、大きな目で見ると現在の売り方が決して正しいようには見えません。現実にはとか各論としてはとかいった言い訳は今までも随分聞いてきました。例えば他に置き換えてみてもらえば解りやすいかもしれません。

 現在政治も混とんとしていますが、その元凶を見れば無駄な税金お使い方であったり、誰も責任を取らない官僚政治にある訳で、将来のための増税というが使うのは今で、前回の増税のように90%は公務員と政治家の手当てに充てているような現実です。

 年寄りが増えて子供が減るといっても子供が税金を納める訳ではなく、子供に使っていた文科省の予算は何処へ消えたのか。そして、20年後には多くの年寄りは自分も含めてこの世にいる訳ではないし、そんなことよりどこまで役所の計算を信じて良いのか。百年安心の年金はたった5年で崩壊したことを忘れてはいけない。

 つまり、現実として耳に解りやすいような理屈はOUTLOOK(展望)で見ればその場限りのツギハギみたいなものです。根本的な事として行政改革をやりながら、役人の責任を明確にする仕組みが出来れば、すぐに無駄な税金を使わなくなるでしょう。つまり根本的なところを改革しなければその場限りのことをいくらやっていても何も治らないという事です。

 話しがややこしくなりましたが、その場の売り上げも勿論大事ですが根本的な改革はもっと大事です。ただ気が付かないだけかもしれませんが、気が付いた人から一歩づつ変えていかなければなりません。ましてや宝飾業界は過去に手本と見本があります。

 その日食べる事も大事ですが、その日の飯だけでは将来も食べていける訳ではありません。

 いつも使う言葉ですが、
『今日は昨日の明日、今日は明日の昨日。』
今の結果は過去の過ごし方の結果で、将来結果を残したいのならその為の現在でなくてはなりません。今、準備が必要です。

2014年11月11日火曜日

商い手⁉

  希少性、耐久性を備えた美しい宝石は既にそれだけの価値があることは言うまでもないが、それだけではない。商う者が宝石の豊かな付加価値に気付き、高い感性を身に付けたときに購入者は商う者に敬意を払い、そこで購入動機が生まれる。

 特に嗜好性の高い宝石を扱うビジネスにおいては。売り手が消費者の精神的豊かさを創造する力を持たなければない。だからこそ宝石を商う者には、豊かな感性、インテリジェンスが求められる。

 あとは誠意とプライドの保証だけである。

 これは私自身の著書『宝石がたからものになる時』の中の一部を抜粋したものです。宝石自身や商う者それ自体の価値を下げることは難しくはありません。この内容の逆であれば良いのです。

 宝石は不要不急の商品で、あってもなくても良いようなものですが、物販は売り手と買い手の商品に関する価値観が共通認識を持った時に売買が成立するわけですから、宝石が売れるという事は消費者がその価値を感じ、求めるという事になります。

 不要不急のものがなぜ必要なのかは、有形、無形にかかわらず人間は付加価値の高い物を生み出すことによって豊かな文化を作り上げてきました。逆に言えば、嗜好品を求めたいとする欲求が社会の文化と進化を促してきたといえるでしょう。

 それゆえに商う者の知識と創造性や誠意による付加価値の構築が絶対条件となり、宝石に対する価値観が生まれてきたのだと思います。消費者は基本的に宝石の価格は解りませんから商い手のプレゼンテーションが大きな影響力を与えます。

 但し、そこに偽りやまやかしがあってはいけない事は勿論の事です。嗜好品というもの現実的に一般の消費者が価格を理解しにくいものです。それゆえに消費者の判断を誤らせるような販売方法は法律で禁止されているわけです。サギが法律で認められることがないようにです。

 それゆえに前述した内容が求められるわけですが、現実には二重価格であったり、疑念を持たれるような販売方法が横行しているのも事実です。

 例えば、ディスカウントショップのようにいつも値引き販売をしているところは其れが正価になりますが、その場で値引きをするために高い価格を付けておいて値引きをするといった方法は法律に触れる販売方法であることは言うまでもありません。残念ながら一部の宝石の展示会においてはこの手法がとられています。

 値引きが悪い訳でも一年中同じディスカウントを行っている事も悪い訳ではありません。宝石の価値観ではなく、その値引き率や虚偽により購入動機を持たせることが問題なのです。

 出来れば商う者が敬意を表され、宝石に対する共通価値観を持ち、購入者が買い求めたものに後悔をしないように価値感を販売後も保つ誠意とプライドを持つようになれば良いと思っています。

 ブランドもそうして構築をされてきたのですが、現在のブランドは残念ながらその本意を忘れかけてきたいるようにも見えます。
 

2014年11月10日月曜日

販売員⁉

 展示会や店舗の於いて、売れるお店と売れないお店があり、売れる販売員と売れない販売員がいますが、いくつかの定説があることを先輩から教授されたことがあります。

 最近、その先輩(先輩と言っても70歳を過ぎた方ですが)とお会いする機会があり、最近自分も小売り現場に立つこともあることを伝え『ご教授頂いた事を確認をしている事があります』と伝えました。その内容とは

⊡売れる販売員は『こんにちわ⁉』と言い、売れない販売員は『いらっしゃいませ⁉』言う。

⊡売れる販売員は使い勝手や感動を伝え、売れない販売員は価格や商品情報を伝える。

⊡売れる販売員はお客を無視し、売れない販売員はお客を直視する。

⊡売れる販売員はお客に近づかないが、売れない販売員はお客から離れない。

⊡売れる販売員は店外にいる時から観察をするが、売れない販売員は店内でのみ意識をする。

 等々、多くの有能な販売員が口にしたことをメモしていたものを先輩はよく口にしていたものです。私自身が小売りの現場に度々立つようになり、首をかしげる内容もあるように感じたのですが、振り返ってみると通ずるものがあるとつくづく感じます。

 まだ、他にも沢山お教え頂いたのですが、特に印象にあった5個を上げてみました。それぞれの理由がちゃんとある訳ですが、この事を理解が出来る販売員さんは既に自然に実行をしているように思います。

 勿論、販売員の中には禁じ手の連続で結果を出している者もいますが、何らかの形で上記している事を行っているように思います。禁じ手を使わなくても結果を出せるのにと思う事も多々あり、悲しくさえなることもあります。

 販売員は商品を売る事は勿論ですが豊かな人生へのナミゲーターでもあります。その事は肝に銘じておきたいと、特に最近は思う場面に多々遭遇しています。

2014年11月9日日曜日

ダイヤモンドと金融バズーカ(2)!?

 
 前回の続きになりますが今後のダイヤモンドが今回の金融バズーカによってどうなるのか?

一般的なダイヤモンドは売れなくなることは十分に考えられることです。さらに円安背景に外国人バイヤーのダイヤモンド買い漁りに拍車が掛かることも考えられます。これは買い取り市場には良い影響なのかもしれません。

 さらに依然にも書いたように現物である地金の一部や大粒ダイヤモンドの値上がりに関しては投機筋の現物確保や利益保全を目的としたものでした。株券や証券が活況を呈し始めたことのより普通であれば売りが入ると考えられるのですが、現在の格差は想像以上と考えられますので現物を手放すほどのことではないと思いますので、ここしばらくは価格が下がることは考えにくいと思います。

 結論から言うと大粒ダイヤモンドは高値安定であり、国内においては当初円安による輸入ダイヤモンドの高値はあるかもしれませんが消費税や物価高による市場不況による安売りやデフレ現象が起きる可能性があるでしょう。

 さらに中期的に見れば今購入したダイヤモンドが国内においては円高期を迎えたときにはダイヤモンドの値下がりが起きる可能性が出たわけです。

 勿論、長期的やドルベースだけであみればある一定の条件を満たしたダイヤモンドは値上がりをすることは想像に値します。ただし、一般的な小粒ダイヤモンドに関しては相変わらずの価格の上下を経済状況に影響されながら恒常的に続けると考えられます。

 いずれにしても今回の金融バズーカ砲の2連発は、もし消費税の際値上げをしたとしたとしたら国内経済を直撃することは間違いがありません。

 政治家がやることは無駄遣いの元凶でもある行政の責任の明確化と自らの身を切ることで財務の安定と政治の質を上げることではないでしょうか。

 ダイヤモンドには以前と違う側面が格差という形で出てきています。金融や経済を無視することはできないという本来の価値とは違うものではありますが、もしかしたら歴史は繰り返すということで金融商品になっていくことも視野に入れておく必要があるのかもしれません。

ダイヤモンドと金融バズーカ(1)!?

 以前にも金融緩和とダイヤモンドについて書きましたが、予想以上の危険な緩和になりそうな感じになってきました。

 日銀の金融緩和のほかに年金資金を使った株の運用が10兆円投下という爆弾があり、効果はてきめんなのは良いのですが、30兆円の日銀による国債の買付が同時ですから株の高騰と円安が重なってきたわけです。

 
 これは国債を安心して手放し、株を買ってくださいという政府からのメッセージですから外資を含め皆が円を売っても株を買おうということになります。まさに日本政府によるバズーカ砲です。

 今後、何が起きるのでしょうか?

 単純な疑問がですが、考えられることは輸出産業が伸びることは間違いがありません。また、金融機関による運用利益が増大します。これは実際には良いことですが、それでは逆に負の部分では何が起きるのでしょう。

 まずは消費税の上がったばかりの市場を円安による輸入物価がさらに負担としてのしか掛かってきます。物価が上がりますが所得は15ヶ月間減少を続けています。これは台所を直撃するだけではなく、石油が値上がりし、地方の交通手段や運送代についても値上がりを続けます。

 大手輸出産業は利益が膨れ、中小輸入産業は長きに渡り続いたデフレ対策として製造の大半を海外生産にしておりますから、赤字転落は防ぎようもありません。ましてや現国会では法人税の引き下げと同時に赤字法人からも税金が取れるように法整備中ですから輸入企業にとっては二重苦です。つまり、輸出にやさしく、輸入に厳しくという結果になるわけです。

 円安による輸入産業の利益は計算上のものですが、輸入決済による円安は実質的なマイナスです。さらに低層家庭を救済のために行おうとしていた食料品や実用品を中心にした減税策はどこぞへ消えた気配です。

 つまり、格差がさらに進むということになりますからダイヤモンドにおける影響はとても大きくなります。それではダイヤモンドに何が起きるのでしょうか?

 

2014年11月8日土曜日

ダイヤモンドの展望⁉

 今年に入ってダイヤモンドの値動きが特徴のあるものとなっているますが、相変わらず1ctサイズの値動きは悪く、ここ一年で6%前後の下落を続けています。しかし、0.3ct、0.5ctサイズの関してはここ数か月動きは悪くなってきましたが、それぞれ3%前後、5%前後と価格は上昇をしております。

 勿論、ダイヤモンドは長い目で見れば価格は上昇をしているわけですが、株価の秒単位とまではいきませんが短期間での値動きが顕著になり、経済状況をある程度反映するものとなっています。

 小粒サイズの1ctを含めたポインターに関して言えば市場の動きに敏感で中国の一般層まで景気が波及してきたここ数年は強い動きになってきていますが、1ctサイズの需要までは届かないのかここに関しては弱い動きがみられます。

 1ctサイズの需要が大きかった日本や米国の需要が減ってきた事が大きいのだと考えられます。以前であれば1ctサイズは売りやすいという事になっていましたが、現在の日本では購入できる層の人々は既に持っており、大きな需要はありません。

 また、婚約指輪の需要には届くサイズではありませんし、現代の若者はそこまで婚約指輪を重要視している様子もありません。つまり、ジュエリーのサイズには大きく、他の目的として持つには小さすぎるサイズという事になるのでしょう。

 3ctsサイズに関しては、やはり値動きは鈍くなってきていますが1ctサイズほどではありませんし、5ctsサイズより大きなものになると値も強く絶対量もないので需供バランスから言うと供給が少ないとも言えます。

 ここで大きな焦点としてファンシーカットダイヤモンドの動きですがラウンドブリリアントに比べ形の好みも出てきますので、多くの人々の共感をする形に関してはやはり強めの価格になっていますがそれ以外になるとかなり価格が弱めになっています。

 特に日本ではファンシーカット文化が浅いので下手に買い取り屋さんにもっていくととんでもない価格を付けられますので要注意となるのですが、プロの間においてもラウンドに比べ弱い価格が付けられる傾向があります。

 このようにダイヤモンドの価格はかなりのロジックが出来上がっており、絶対量は少ないかもしれませんが株や証券とは違う、現物での実体としてのなんらかの市場が現れるかもしれません。

 

2014年11月7日金曜日

ディスカウント⁉


 倒産セール、閉店セール、改装セール、セール、ディスカウントそれぞれが消費者にインパクトの強い言葉の羅列ですが一番インパクトの強い倒産セールに関しては品の無さを感じるわけですが、言葉の違いがあれ、どの言葉もそれなりの要素が入っているので消費者には効果があるのでしょう。
 

 しかし、昨今はあまりにもこれらの言葉が氾濫をしていて、消費者は慣れっこになっているようにさえ感じます。ディスカウントで通じなければより一層の強い言葉をということになるのですが、最後に倒産セールという言葉を残して倒産をするのでしょうか。

 いずれにしてもディスカウントという言葉はDISという言葉は差し引くとか欠如、奪うなどの否定の強調語なわけですが、COUNTの語源に価値という言葉も入っていることを考えると、価値を差し引くということになりはしないでしょうか。

 値引きという言葉は消費者には魅力的ですが、それに魅力を感じる人とそれをハスから見る人と何ら自分の価値観に値引きを影響させない人がいます。値引きは小さければ小さいほど元の価格に信憑性を持つわけですが、それを勘違いしている販売側もいます。

 つまり、値引きと二重価格を間違って解釈をして、値引きは法に触れないと思っている人たちもいる訳です。値引きは勿論、法に触れるものではありません。しかし、二重価格は大きな問題なのです。

 いずれにしても、商売というものは価値を上げ、利益を追及することが必須であり、それを消費者に認められるかどうか、さらにその価格を通し続けることができるかどうかが基本ですから、それらを認められないところはディスカウントをし、最後は倒産セールという道筋を歩むことになるのでしょう。

 実用品であれ、食料品であれ、時代遅れや賞味期限切れ間際などの価値を損ない始めて、初めてディスカウントを行うわけですがちゃんとした理由があります。語源の通りに価値を差し引くという事になる訳です。

 二重価格ではない本来の値引き関しては、迷っている消費者の背中を押してあげたり、その価値を感じたりするものでありますから良いことも多いわけです。但し、過ぎたるは及ばざるがごとしではありませんが必要以上の事は相手に疑問や疑念を持たせたりするのではないでしょうか。

 つまり、値引きによって購入意欲を掻き立てるものと、価値を感じている人に購入を促せる為の値引きとあるわけですが、これらと二重価格は明らかに違うものなわけです。

 本来の価値が認められずに価格を下げるものがディスカウントの語源でもあるわけですが、価値を下げに行く販売方法がいつまで続くのかはわかりませんが、宝飾品に関しては販売している人の信頼とその宝飾品の持つ付加価値をいかに高めていくかというビジネスですから、値引き、特に二重価格は最もなじまない販売方法なのでないでしょうか。

2014年11月1日土曜日

金融緩和とダイヤモンド⁉

 今回の黒田日銀総裁による金融緩和のタイミングは絶妙であったとの見解もありますが、果たしてそうだろうか? といった疑問があります。

 確かに一時的に株価が上昇し、円安にも向かい一時的には市場にとって良いように見えますが、実際のマーケットはどうであろうか。実質小売価格を押し上げ、実体経済という意味では危うさを感じます。

 米国の株市場も反応し、史上最高値を付けたように、単純に日本の実質経済市場に照らしてみてはたして良いのだろうか?

 つまり、現在の金融経済はバーチャルな部分が多く、利益を上げた人間のお金が市場に出回るかどうかが心配です。なぜなら、ここ数年実質的利益を上げている企業や投資家のお金はほとんど市場に還流されていないといって良いでしょう。

 それらの多くの人はマネーゲームだったり、必要以上の蓄財にあて、市場に還元をすることはほとんどないと言っても過言ではありません。ここ数年多くの利益を上げている金融機関の資金のほとんどは金融市場に回り、本来の役割である一般市場に資金を回すという役割はなされていません。

 低金利でお金を預かり、高金利で市場に資金を回し、実質的には金融緩和という内容では市場に反映はされていません。その証拠に10年定期を組んだとしても1%前後の金利ですが、ここ10年だけでもデフレとはいっても4%前後の物価上昇があります。つまり、現金のままに銀行に預けておくと3%の目減りを起こすわけです。

 金融機関は黙っていてもその分の利益が還元されるわけです。さらにグループ子会社化からキャッシングなどの高金利で融資をしておりますので、実質的に一般市場に金融緩和は効果が及んではいません。むしろバーチャル経済の後押し状態になっています。

 ダイヤモンド業界においても同じことが言えます。地金やダイヤモンドは現物資産として、保全に使われ、それ以外の資金を株や債券市場での投資に回しておりますので、地金やダイヤモンドは早々に価格が下がりません。もちろんダイヤモンドに関してはある程度の大きさと品質が条件にはなりますが・・。

 現状でも3cts以下のところに関しては大きな価格上昇を招いておりませんが、一定の大きさと付加価値を前提とした物は価格が下がりません。それではよかったではないかと思いますが、実質的にはジュエリーの範囲を超え資本家達の資金の逃げ場所になっていますので、経済状況が影響する小さなサイズは低価格に、そして大きなサイズは現実離れした価格になっています。

 これらの現象は格差が生んでいるものですが、金融緩和自体は資金の豊富なところにとっては確かに有効かもしれませんが一般市場に関してはいかがなものかと懸念をしています。

 今回の金融緩和が実体経済ではなくバーチャル経済に有効なだけで終わらないように祈るばかりです。実体経済より大きすぎる金融市場はいずれ大きなを痛手を我々に充てるような気がします。

 数年前のリーマンショックはそのためとは言いませんが金融至上主義が生んだ波乱であったことは否めません。少なくても実体経済であるダイヤモンド業界がバーチャル金融に巻き込まれることだけは避けたいものです。

 実体経済である地金のマーケットが動くときには必ずと言っていいほど過去のダイヤモンドの市場は動いています。注視したいものです。今はまだ高値安定ですが今後はどうなるのでしょうか?

 ただダイヤモンドに関しては1980年のようなバブルのような高騰とイコールではないと考えています。暴落に関しては考えにくい状況であることは確かだと思います。

責任⁉

 最近、政治資金の問題で国会が紛糾をしているのですが、本当に不思議です。国会の役割とはと考えると、政治資金の問題は法律ですから司法がやる問題であって国会が行う問題ではないと思うのです。

 元経産大臣に関しては、大きな問題であることは理解をしますが現経産大臣の地方秘書の領収書の問題なぞは、一般の会社であれば社員が経費の仕分けを間違った程度の事かもしれません。その事で社長が責任を追及される事は考えられません。

 そんな事を高い税金が使われている国会で野党議員が追及をしている事を考えると、その方が役割の責任という事を考えると、むしろ考えてほしいと思うのは私だけでしょうか?

 以前、問題になった『グリーンピア』で1兆数千万円の無駄遣いというか、税金を消滅させた責任追及の方がはるかに大きいのに政治家がだれも追及をしないのも納得が出来ません。トップの大臣が判を押している事を考えると下手に責任を追及すると自らに降りかかるとでも思っているのでしょう。

 それこそ、一般の会社であれば総責任は社長にあり、部署の責任は部課長にあるというふうに最初から規則ではないかもしれないけれど暗黙のルールになっているでしょう。店舗の売り上げの責任は店長にあり、部署の売り上げの責任は部課長にあり、会社全体の業績の責任は社長にあります。

 当たり前のことが出来なければ結果は出ないと思います。つまり、役人たれども、それぞれの業務の責任を取る規則さえあれば税金の使い方に慎重になるし、業務への結果報酬を加味しなければならないでしょう。

 行政の一番まずいと感じるところはそれぞれの省庁の最高責任者は大臣となっているけれども実質的なことは役人のトップである事務次官が判断をしている事が多いのだから、役人が責任を取ったり、ペナルティを与えられたりすることに関しては規則が決められることはないでしょう。

 国会議員が本質的な議論せずに重箱の隅をつつくような追求しかしないのは総括的な役所の改革がなされなければいけないのでしょうが、『行革』を掲げてから早何十年とたっていますが、一番進まない改革でしょう。政治家が役人におんぶにだっこでは仕方がないのかもしれませんが・・。

 日本の多くの組織の責任は不明確なところがあります、感情や雰囲気で責任のやりどころが決まるケースも多々あります。例えば、上司は指示を出す立場にあると勘違いをして結果が出ないと部下の責任と思う事が多いのですが、実際にはその上司の責任である事を理解していない事が多いように思います。

 指示が明確であるかどうかを含めて上司の責任の取り方が明確になっていないことが日本の仕事の遅さ(海外からよく指摘をされる)があるのだと思います。その上、最終的には担当者が移動して終わりという事が多くあります。本来であれば同時に上司の処分と結果責任が問われるわけです。

 競馬と同じでどんなに良い馬に乗っていても騎手の手綱さばきがまずければ勝つことが出来ないのです。

 もし我が国の役人たちが北欧の政治家や役人のように質素な佇まいで仕事を行うことが出来たなら、日本はもっとも豊かな国になるでしょう。明確な目的を持った国の運営ができているという事でしょう。その為に果たす国民の責任もはっきりしているわけです。

 会社でも国でも明確な目的と責任の所在をはっきりさせることが結果に近づくという事ではないでしょうか。