今年はSTAP細胞やら偽盲目作曲家やらなにやら怪しい地方議員やらとすべてを一緒くたにはできないけれど似非っぽさが記憶に残る一年であったような気がします。
『似非』とは平安時代から使われている似てはいるが・・・とか、実態にそぐわない物とか状態を指す言葉ですが今年は正にこの言葉があってはまる一年だったと感じます。
政治にしても社会の様相にしてもバーチャルといえば耳あたりは良いのですが、いわゆる実体のない物や状態がデジタルが進むことにより一層に拍車をかけているような気がします。過去の進化は、バクテリアが動物になってきたように自然による進化であったわけですが、現在の進化は人間によるもので、それについていく人とついていけない人に分かれてきます。
自然が創り出した事実を受け入れる事やそれをいじらないことが本来の進化であり、本物なのではないだろうかと感じる訳です。人間の都合により行う進化は最小限で人類の生活に貢献出来得るかどうかがポイントなのではないでしょうか。
勿論今の進化を全面否定するつもりはありませんが、過ぎたるは及ばざるがごとしではありませんが、現在のSNS]にしてもゲームにしても人間の生活に必須であるのかどうか?逆にそれが中毒として必須になっている麻薬のような気がするのは私だけでしょうか?
似非は麻薬のように常態化するとそれが必須になっていくことが恐ろしいのです。つまり、麻薬でもなんでもそうですが楽であり逃避である訳で、そこにどんな理由を付けようと結果的には生産性もなければ、実体もなくなり究極、廃人化していくような気がします。
宝飾業界においても似非は蔓延っています。今年もいくつかの祭事に参加をさせてもらい、更にプロの方達へのセミナーを開かせて頂いて感じたことは、明らかに間違った販売方法をとっていても既に常態化しており、それを変える事が現実的ではないと思い込んでいる点です。
お客様を見くびっている訳ではないのです。多くの宝石を商っている中堅どころは宝飾業の何なのかを分からずに、バブルの終わった後に入って来て、後始末のような苦肉の策で行っていたその場しのぎの販売を行ってきたところに入り、それが楽な方法なので常態化をしたところで身につけてきた知識経験なのです。
現在多くなされているディスカウント商法は先人たちが作り上げてきた価値を切り刻むことにより出ている結果だという事に気が付く人々は少ないのです。自然の創り出した価値を磨き上げながら創り出してきた付加価値を再度構築することが出来なければ、切り刻むことの出来る価値自体がなくなってしまう訳です。
宝飾業というものは自然の価値をさらに磨き付加価値を付ける作業を行う事で消費者の欲求を呼び起こす仕事です。腹の減った猛獣の前に餌を出せばすぐに食いつきます。しかし、お腹の一杯になった猛獣の前にはいつも食べさせられている物をおいても食べてはくれません。
もう腹いっぱいの状態を作り上げてしまった(うんざりする様なディスカウント商法)状態では、いくらまやかしてみても食欲は起きません。もう一度、めったに食べる事がない興味を持つような盛り付けが必要なのではないでしょうか。
過去には沢山の安売り店が潰れていきました。しかし、本物を守っている老舗は数百年と続いています。数百年を超えたビジネスをわざわざ潰す序章を続ける必要はありません。
楽な道はいずれ楽をした体力では越せないいばらの道に行き会います。すでに出来上がっている道の上をさらに歩きやすくする様に尽力する方が明らかに現実です。似非で永代はあり得ないのです。
『似非』とは平安時代から使われている似てはいるが・・・とか、実態にそぐわない物とか状態を指す言葉ですが今年は正にこの言葉があってはまる一年だったと感じます。
政治にしても社会の様相にしてもバーチャルといえば耳あたりは良いのですが、いわゆる実体のない物や状態がデジタルが進むことにより一層に拍車をかけているような気がします。過去の進化は、バクテリアが動物になってきたように自然による進化であったわけですが、現在の進化は人間によるもので、それについていく人とついていけない人に分かれてきます。
自然が創り出した事実を受け入れる事やそれをいじらないことが本来の進化であり、本物なのではないだろうかと感じる訳です。人間の都合により行う進化は最小限で人類の生活に貢献出来得るかどうかがポイントなのではないでしょうか。
勿論今の進化を全面否定するつもりはありませんが、過ぎたるは及ばざるがごとしではありませんが、現在のSNS]にしてもゲームにしても人間の生活に必須であるのかどうか?逆にそれが中毒として必須になっている麻薬のような気がするのは私だけでしょうか?
似非は麻薬のように常態化するとそれが必須になっていくことが恐ろしいのです。つまり、麻薬でもなんでもそうですが楽であり逃避である訳で、そこにどんな理由を付けようと結果的には生産性もなければ、実体もなくなり究極、廃人化していくような気がします。
宝飾業界においても似非は蔓延っています。今年もいくつかの祭事に参加をさせてもらい、更にプロの方達へのセミナーを開かせて頂いて感じたことは、明らかに間違った販売方法をとっていても既に常態化しており、それを変える事が現実的ではないと思い込んでいる点です。
お客様を見くびっている訳ではないのです。多くの宝石を商っている中堅どころは宝飾業の何なのかを分からずに、バブルの終わった後に入って来て、後始末のような苦肉の策で行っていたその場しのぎの販売を行ってきたところに入り、それが楽な方法なので常態化をしたところで身につけてきた知識経験なのです。
現在多くなされているディスカウント商法は先人たちが作り上げてきた価値を切り刻むことにより出ている結果だという事に気が付く人々は少ないのです。自然の創り出した価値を磨き上げながら創り出してきた付加価値を再度構築することが出来なければ、切り刻むことの出来る価値自体がなくなってしまう訳です。
宝飾業というものは自然の価値をさらに磨き付加価値を付ける作業を行う事で消費者の欲求を呼び起こす仕事です。腹の減った猛獣の前に餌を出せばすぐに食いつきます。しかし、お腹の一杯になった猛獣の前にはいつも食べさせられている物をおいても食べてはくれません。
もう腹いっぱいの状態を作り上げてしまった(うんざりする様なディスカウント商法)状態では、いくらまやかしてみても食欲は起きません。もう一度、めったに食べる事がない興味を持つような盛り付けが必要なのではないでしょうか。
過去には沢山の安売り店が潰れていきました。しかし、本物を守っている老舗は数百年と続いています。数百年を超えたビジネスをわざわざ潰す序章を続ける必要はありません。
楽な道はいずれ楽をした体力では越せないいばらの道に行き会います。すでに出来上がっている道の上をさらに歩きやすくする様に尽力する方が明らかに現実です。似非で永代はあり得ないのです。
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