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2010年12月29日水曜日

沢山の一言

 年末を迎え、この一年を振り返り小生が考える時に口にした一言を特集してみようと考えました。
その一言を振り返ることでどういう一年であったか望年して、新年に生かそうかと・・・。

 皆さんもお付き合いください。

1. ストーリーを優先されるものがジュエリーであり、コストが優先されるものは
  商品である。

2. 誰もが手に入る方法で、誰もが手に入れることが出来る価値は、既にジュエリ
  ーとしての価値はない。

3. 結果を求めるにはそれに比例した対価を払わなければならない。

4. ビジネスは権利の前に義務がある。しかし、人生は義務の前に権利があるよう
  に誤解しやすい。

5. やらなかった後悔はやった後悔より尾を引く。

6. 目的と言う結果が明確であれば準備が出来る。それは準備がなければ結果が
  出ないということである。

7. 体験と学習は与えられるより臨むほうが中身も濃く、楽である。

8. 今の自分は過去の結果であり、今の自分は未来への過程である。

9. 凡人の中には非凡なくらい平凡な人間がいる。そして、必ず回りに一人は
  いる。ただし、沢山はいないのが不思議である。

10. 自らの優しさが、必ずしも相手に心地よいとは限らない。

以上が今年の一節毎につぶやいた一言のほんの一部です。
多すぎてややこしい一年だったなぁ~と思っています。

はたして来年に繋がるのやら心配です。


2010年12月28日火曜日

ダイアモンドの原石

 よく、能力があり発揮できていない人の事をダイアモンドの原石に例える事があります。
それは、自分でその能力を理解しているのではなく、周りの人間が発見する場合が多く、
自ら『私はダイアモンドの原石です』とは言いませんよね。

 他の力により磨かれて初めて輝くという意味では確かにダイアモンドの原石の比喩は
あたっているかもしれません。
 なぜなら、ダイアモンドも本来は美しさゆえの価値ではありませんでした。

 硬いというだけの価値であったダイアモンドの原石は後に磨かれることによりその真価
を現わしてきました。その後ダイアモンド研磨技術の進化によりその価値は一段と増してきて、
その輝きは宝石の中でも群を抜いた美しさです。

 しかし、面白いもので輝きが増すごとに必ずしもその物の輝きを好まない人が出てきます。
つまり、研磨技術の進化により細かな煌めきが増え、その煌めきが人によっては
『ギラギラしてあまり好きではない』という人も出てきます。

 ダイアモンドの原石には色々な形をした物があり、その形によりどのような形に研磨をするか決められる、その際にはいかに効率の良い経済的な形にするか(如何に重量を多くとれるか)
も考慮の上、決めれれます。しかし、重量がとれても形として美しくなければ、また内胞物が
多く含まれていると価値も下がります。

 内胞物を避け、美しい形がとれ重量もそこそこに仕上がる事が一番良いにですが、必ずしも
そうはなりません。またそのように仕上がってもその先の研磨技術によりギラギラして『嫌だ』
と前述のように言われる場合があります。勿論そのギラギラが好きだという人もいますが・・・。

 形、重さ、内胞物の有無の考慮、ここまでは現代技術でコンピューターである程度結論を
出すことができます。問題はこの先に嗜好的価値を左右する問題が出てきます。
 それはダイアモンドにどれくらい面を施すかとか、微妙に角のアングルを変えたほうが良い
等の見た目の問題です。勿論、多くのダイアモンドは大きな物はそんなにありませんから
見た目にさほど一般の方は気がつかないかもしれません。(供給側の理屈です)

 最終的に出来あがる研磨されたダイアモンドは必ずしも研磨師の思惑で仕上がる訳では
なく、あくまで原石の形、つまりダイアモンドに研磨させられているといった方が良いのかも
しれません。

 人にも同じことが言え、研磨師である指導者や上司の都合で能力が引き出されるわけ
ではなく、あくまでも原石である本人の要素や性格に合った指導方法をとらなければ素晴らしい
能力が開花するわけではない。

 『部下は上司の信頼を失っても仕事で取り戻せるが、上司は部下の信頼を失うと仕事で取り戻すことは出来ない』
という言葉がある。

 研磨師は原石を間違った方法で研磨するとその損失は大きい、しかし、ダイアモンドは
ダイアモンドである事に変わりはない。

 前回の心技体の項で述べた競技者たちは良い研磨師似合ったのであろう。いずれにしても上司であれ、指導者であれ最終的には原石たちに育てられているという半面も確実にあると思います。
 『ダイアモンドの原石』の例えは真理なのかもしれません。
 
 

2010年12月27日月曜日

心技体

昨夜の全日本フィギア選手権女子フリーを見ていて感動すらしました。

 技術は勿論の心の演技における部分は大きいのだなぁ・・と真央ちゃん
だけではなく、安藤、村上両選手を見ていてもそう感じました。

何事でもそうですが技術があり、強いだけでは真のチャンピオンになれない。

 横綱白鵬を見ていて今年感じた事は彼自身の目標でもある大横綱双葉山
に近づいたような様な気がする。

 本来、大横綱の条件として立ち合いを受け、取組み相手の組み手を前提
とするものです。ゆえに、立ち合いで飛んだり、勝つために手段を選ばなかった
同じモンゴル出身の某横綱はなかなか皆が認めないところもありました。

昨夜同時に放映していた亀田兄弟にも同じことが言えるかもしれない。

 それぞれの競技や試合を見ていて観客が応援し、感動をするのには何かの理由が
あると思います。石川遼選手を見ていても技術や身体はまだまだでも心がついてきている
様な気がします。

 フィギアの三選手を見ているとその道程を見ているようで競技以外の何か別の物を感じた
のは私だけではないと思います。

 心技体とは永遠に目標にしていくためのカテゴリーなのかもしれません。それは何も
スポーツ選手だけに言えるものではなく、それぞれの分野のスペシャリストには全て
に通じる事で、それは物であっても同じことが言えるのでしょう。

心の琴線に触れる事は何においても充実感と心に潤いを与えてくれます。

 『感動は見せかけでは与えることはできません。
  また、人は心を開く事が出来なければ感動をすることはできません』

 それぞれの価値観という言葉がありますが、共有する価値観で誰もが認める価値観は
双方の心の持ち方なのでしょう。但し、その条件は卓越した価値である事です。

2010年12月24日金曜日

クリスマス・イブ

1977年12月24日   ロスアンゼルス夜

 ロスアンゼルスのダウンタウンからウイルシャー通りを西に向かいサンタモニカの手前を
右に折れると、突き当たりにUCLA(カリフォルニア大学LA校)がある。

 そのお膝元にウエストウッドという小さな町がある。
御存じ方も多いと思うし、耳にされた方も多くいるでしょう。
この通りの中ほどに『イエスタデイ』というイングランドパブとカントリー風を
混ぜたようなレストランがあり、そこで学生をはじめ若者たちが大騒ぎをしていた。

 友人に連れられて私もその中もに加わったが、決して狭くない店内は百数十人の客でごった返していた。トイレにもたどり着くにも酔っぱらった若者たちをかき分けていくのは大変で、途中途中で
他のお客にお酒を飲ませられながらのトイレの到着でありました。

 用を足し、店内に戻ろうとしたところでした。ザワザワとした中に大きな声が響いていました。

『若者諸君、本日は大騒ぎをする日ではない。静かに教会に向かい、イエス様の為に、自分の為
にお祈りをする日である』 とよく通る声である。

 声の主を探すとその様相にビックリした。
白いひげをアゴに蓄え、サンタクロースの帽子をかぶり、その姿はそのものでした。

『聞こえたか?みんなわかったな!!』

突然の事に若者たちは当然のように大ブーイング。
『ひっこめ、サンタクロース爺』

『ハッハッハハ~ッ』
大声で笑う姿はサンタクロースそのもの・・。

『冗談だよ。若者たち、時代は変わった、大いに飲み騒ぎイエスをお祝いし、
 このめでたい行事を未来へ。アーメン』
と突然豹変・・。

 面を食らって、何が起きたのかよく事情が解らない私に友人は
『彼はビバリーヒルズの住人で沢山の学生を面倒みている人だよ』
と囁いてくれた。

 『さあ~、今日は私の奢りだ気持ちよく騒ぎ、気持ちよくお酒を飲んで忘れる事のない
クリスマス・イブにしなさい』

 『メリー・クリスマス!!』

突然の訪問者に店内は上へ下への大騒ぎ (表現があっているかどうか、解らないが・・。)

それからというものは飲み放題状態が続き、この店の名物ドリンクであった
《フローズン・マルゲリータ》 はそこらじゅう宙を舞っている状態が見受けられました。

 それから数時間後、気前の良い紳士の姿はなく、そこの勘定がどうなったかもわからなく
しこたま飲んだ私は店外に出て、友人の車でハリウッドに向かいました。(当時でも違反である)

 その夜の事を時々思い出すことがある。そして、同時に当時のアメリカの凄さやその時代に
アメリカで過ごしたことが大事な財産となっています。

 最近の若者は海外に出たがらないと聞くとさみしい気がする。一つの場所しか知らなければ、
一つ分の場所の経験しかできない。それもまた人生かもしれないが、他を知った上で、その人生を
選んでほしいと思います。

 まだまだ人種差別が残っていたアメリカではあるが沢山の財産を私にくれたような気がする。
そして、今もそのサンタクロースは私に中に存在し、何時でもその時代に誘ってくれます。

 それは決して、過去を引きづっている訳ではなく、未来を提示してくれているような気がします。

『メリー・クリスマス』

2010年12月23日木曜日

 I T 社会

ITが普及してというかIT社会になって時間もだいぶたった。

でも、なぜかしっくりこないのです。

 馴染まないということではないのですが、以前にも述べた総論と各論に
近いものがあるのですが、元々はと言えば『離島も首都圏も平等』になる
といった未来像がありました。

 確かにビジネスにおいては地方も大都市圏もある意味においては差がなく
なりました。しかし、先日TVを見ていて離島では中学校を卒業すると本島の
高校に行くために家族ごと移り住むので人口の過疎化がどんどん進んでいる
ということです。

 このIT社会においてはインフラで整備ができているようで一番必要なところで
行き渡っていないように感じます。なぜなら、この時代、ネットを通して高校教育
等はいくらでもできると考えます。それは通信教育をはるかに超えた環境です。

 インターネットを使い本島の高校の授業を同時に受ける事はさして難しい話では
ないはずで、本来はそういうこと基本にITは使われるはずだったと思います。

 ビジネス偏重の時代なのか世の中の考え方の偏重なのか、違和感を感じるのは
私だけでしょうか?
 『そもそも論』としての総論が各論に曲げられてるような気さえします。
ゲームの配信やスキャンダルの配信、ましてや出会い系サイトを一生懸命やっている
くらいならもっと他にやることがあるような気がします。

 政治の世界においても、小沢問題がその取り巻きの連中が、
さも小沢氏が言っていることが正しいかのような擁護論を振り回しています。
 彼らの言っている理屈はほとんどの国民は分かっているわけです。
司法の場に移っているとか法を順守しての行動であるとか・・・。

 ここでも、そもそも法律は政治家が立法府で作っているものなのだから法を
順守して当り前で、その上で、政治家は法律さえ守っていればよいのか、
ということだと思います。つまり、政治家は倫理観が一番大きく前提となり、
法律に触れていなくても倫理として行ってはいけないことが沢山あるわけです。

 政治には金がかかり、政治家はお金が足りないと嘆いている若い政治家が
多い一方で、なぜ一人の政治家があんなに沢山の秘書を抱え、お金を自由にできるのか?
・・・単純な疑問を国民は持っています。
どちらの言っていることが本当なのか?
もしくは特定の政治家にはお金が集まるようになっているのか?

 これらの疑問には司法の場とは関係なく、国会という場で議員として何らかの
結論を出すことは当り前だと考えます。

 IT社会、政治、ビジネス、人間社会など関係なく、本来はという考え方をすること
によって見えてくる事は多いのではないでしょうか。
 世の中にある事物は何かの理由があって存在しています。
事物に理由を後付けしていると、間違っていないように見える事が実は目先の事
になったり、その場限りの事になったりしてしまうのではないでしょうか。
逆に言うと事物がそこにあるということは何かの理由があって存在しています。

 事物の存在の『そもそも論』を考えてみる事も現代においては必要なことではないでしょうか?
何時もの事ですがダイアモンドにも存在理由があります。
何の役にも立っていないようで最も人類と永く寄り添い、歩んできた事には理由があります。
そこに気がつかないことが現代の偏重状況を現わしているようです。

 もう一度立ち止まって考えてみたらどうでしょうか。正月も近いことですし・・・・・。

 

2010年12月22日水曜日

ダイアモンドのこぼれ話(その3)

有名人はダイヤモンドがお好き!?

 ダイアモンドに関しては色々な物語を時代を超えて運んでくれるということは書いてきました。
その顕著な例がダイアモンドの歴史においては最近の話になりますがマリリンモンローの話が
有名です。

マリリン・モンローの《バローダの月》

 マリリン・モンローの共演者でいちばん彼女を引き立てたのはダイヤモンドと言っていいのではないでしょうか。

 映画『お熱いのがお好き』の中でも豪華なダイヤモンドのブレスレットが役の上で重要な位置を占めていた。

過去、貴族や財閥のものされていたダイヤモンドだったが、地方回りの歌手が富豪からブレスレットをプレゼントされて喜ぶシーンは、誰にとってもそれが特別のものではない身近に起きるかもしれないことを印象付けたようにも見えます。

 彼女の有名なミュージカル映画《紳士は金髪がお好き》の中で彼女は「女の子はダイヤモンドが最高のお友達」と歌い上げるシーンがある。これがダイヤモンドの現代的な存在感を決めたと考えてもいいでしょう。

 財閥でもない普通の女性が「ダイヤモンドがほしい」と言い、それをとんでもないことと考えずに、ごく普通にかわいらしい女の子がおねだりしただけと見える。何か現代に通ずるような気さえします。

 彼女は常にパーティーではダイヤモンドを身に付けていました。ダイヤモンドは決して上流社会といった印象のない彼女が地位を築く、一因となったと言えるでしょう。

 彼女が身に付けていた中で特に有名なものは《バローダの月》と呼ばれるペアシェイプで24.04カラットのカナリア・イエローのダイヤモンドです。
 
 インドのマハラジャ(藩王)の手を離れた《バローダの月》はマリーアントワネットから実家のハプスブルグ家にいた母マリア・テレジアの元へ、その後、数人の手を経てマリリン・モンローの手元に渡りました。

 このダイヤモンドは元々インドのバローダ地方の藩王(マハラジャ)ガエクワル家の物であったためにその名(ザ・ムーン・オブ・バローダ)の名が付けられました。伝説もまた、その後のモンローを彷彿するもので、「身に付けた人は歴史に名を残す」といわれ、モンロー自身がそれを実証したことになります。

《バローダの月》は現在、大きな声では言えませんが日本にあります。
 
 ここ数年、国内のメーカーによりこのレプリカが販売されてきたが、イエローのペアシェイプを身に付けることで、モンローの気持ちを楽しむのもジュエリーを楽しむ方法の一つではないでしょうか。

このほかにも、モンローをイメージして製作されたジュエリーが数多くあります。代表的なものは、ハリー・ウィンストンが製作し、滝をイメージした「ウォーター・フォール・イヤリング」でしょう。細かいダイヤモンドが流れるように連なったフォルムは優雅であり、女性のいたずらっぽさを表現したデザインです。

このようにダイアモンド一つで過去の有名人に想いを寄せたり出来るのですから皆さんもぜひご自分を未来の世界へ誘ってくれるダイアモンドに想いを馳せてみてください。

2010年12月21日火曜日

足りないもの。

 相手にとって足りないもの、必要なものを渡して対価を受け取るのが
ビジネスの基本です。

でも、その前に足りないと思ったり、必要だと感じてもらわなければビジネスの根拠になりません。それを感じさせる手法が必要です。横文字でいうマーケティングですよね。

 それは物心両方に言えることで、ある時は食料品屋であり、ある時は宗教であるわけです。
つまり、物資であり、文化であり、環境であるわけで自然に起きうる足りないもの、必要なものであればビジネスの形成に問題はありません。しかし、それでもそこに何かの差がなければビジネスで勝つことはありません。デザインであったり、価格であったりするわけです。必需品に差が出れば売れるという単純な理屈になります。これを一次的ビジネスとします

 環境ビジネスは以前はありませんでした。
でもみんなが『地球は危ない』と叫び始めるとエコビジネスが生まれる。
『肥っていては健康に悪い』と皆が言い出せばダイエットビジネスが生まれる。
『将来に不安がある』と言えば占いビジネスが流行る。
 つまり、これらは宗教に近いものがあり、人心の不安や不信を揺さぶることにより、
何かを足りなく感じさせ、必要だと思わせるマーケティングです。これはあえて言えば
仮想市場である二次的ビジネスです。(本来、必要かどうかは別ですが・・・・。)

宝石はどうすれば必要だと思われるのだろうか?
相手が『足りない』『不安を埋めたい』と思ってくれ、それを解決するのは宝石だと思ってくれなければ売れません。しかし、そんな対象の物ではありません。
宝石のビジネスは一次的でも二次的でもありません。しかし、何千年の間続いている
ビジネスである事は事実です。宝石は足りなくも必要でもないかもしれません。

ではなぜ?

 一次的、二次的問わず本物である必要はありません。食べる事が出来、着る事が出来、ましてや気持ちがまぎれれば良いとというレベルであればという部分があります。

 宝石である条件として美観性、希少性、耐久性、携帯性、換金性という条件があります。
これらは何も宝石だけに当てはまるものではありません。
 
 長い時を超える物という事に関しては本物でなければ残りません。それはそのもの自体に価値があると同時に周りが価値を感じなければなりません。それは物だけではなく老舗といわれるお店であったり、技術であっても同じことが言えると思います。

 宝石は人類より長い歴史を持ち、自然から生まれた唯一の物です。つまり、足りないものでも
必要なものでもなく一緒に存在して当り前の物です。あえて言えば人間がいつも意識をしていなければならない感性の存在です。

 ダイアモンドを見て『かわいい!?』 とか 『ドキドキしちゃう!?』という方がいます。この感性は見ていて不思議な感じすらします。

 何故か懐かしい感じすらします。

 本物を素直に見る感受性だったり、感性の豊かさを感じます。

結論から言うと人類に足りなくなった物を教えてくれる存在が宝石であり、本物であったりするのでしょう。

 時代を超えて本来あるべき姿を教えてくれるものが本物であり、その象徴的なものにダイアモンドがあると考えています。その姿がなくなった時には何も生まれなくなります。

 素直に本物を理解する目を持ち、見極める事は大げさにいえば人類の将来を左右すらするのではないかと思います。流行り物が悪いのではありません。それが本物である事を願っているだけです。

 現代人はあまりにも見失ってきた物が多すぎる気がします。

今一度、本物を見る目を養いたいものです。

2010年12月20日月曜日

時間を超える。

  先日、久々にお天気もよくお店のの外を眺めていたら品の良いご婦人がニコニコと
近づいてこられた。

『あら、社長さんお珍しいですね。お店にいらっしゃるなんて』
 
事務所の方にいることが多いんですよね。たまには日向ぼっこでもと思いまして』
よくお店にお越しいただいているお客様に軽く会釈を返すと

『ちょうど良かったわ、実は祖父から頂いた懐中時計が出てきましたの』
(祖父からということは相当古いなァ~)と何気に思いながら

『戦前のものだと思いますのよ。祖父はよく戦前にヨーロッパに仕事で行っておりまして
その時持ち帰ったものだと思いますの。』
 
『ちょっと見て頂こうと思って持ってきましたの』
 
『それでは中で拝見しましょう。』
と接客席をご案内をしながら

『戦前のヨーロッパの買い物には出物が多いんですよ』
と席に着くと

『でも、もう止まっちゃってるし、どうなんでしょうね?』
 
『とりあえず拝見しましょう』
 
『これはもうなくなってしまったメーカーですが高級品で今マニアの間では
結構ほしがる方が多いですよ』
 
『へェ~、良いお品物なんですか?』
 
『百年少し前のもので18金に七宝を施した高級品ですよ』
『お直しできるかどうかわかりませんがお預かり出来るなら修理に出してみましょう』
 
『私はおじいちゃん子で何時も可愛がってもらっていましたの。もし、直るなら直していただきたいです。祖父がいつも身に着けていた思い出が蘇ってきましたの。』
 
時計だけではなくこの金と七宝の青色が素晴らしいですね』
 
『そうなんですの、わたくしこの色合いが祖父の色なんですが幼いころは
あまり好きな色ではありませんでしたのよ』

『でも年をっとったんですね。改めてこの色合いを見ると、落ち着いて良い色ですね』
 
その後、時計も直り再び時を刻み始めたのですが後日あらためてご来店を頂きました。

『直ってみてわかったんですが、この時計の音を聞いていると
祖父に抱いてもらっていた時の音だと、今になって思い出しました。祖父と一緒にいるみたいです』
 
『それから、金で青色の七宝の指輪をつくっていたでけないかしら』
 
『もちろんですとも、あの時計に近い雰囲気のものをおつくりしましょう』
 
『あら、良くおわかりね。祖父のこと思い出していたいのよね』
 
たまには外に立って人の歴史に触れるのもいいかもしれない・・・。
本物は時間を超える・・・。

2010年12月18日土曜日

安息日

 仕事柄30年ほど前よりイスラエルに渡る機会が多くありました。
というより、仕事場の多くがイスラエルだったので仲間のほとんどがユダヤ人であり、
彼らの宗教であるユダヤ教には当初は戸惑うこともありました。

 ユダヤ教にはシャバット(安息日)があります。彼らの生活の多くはユダヤ教の経典である
『トーラ』に従っておくられています。

 『シャバット』とは金曜日の日没から土曜日の日没までの間で、季節によりその時間も異なります。
 金曜日の日没より一切の労働をしてはならないとされており、彼らはその時間を過ぎて帰宅、料理、掃除を含め全ての労働といわれるものを行ってはいけません。
 
 『シャバット』中は家庭で静かに読書をしたり、休養をとったりして過ごします。ホテルのエレベーターなども自動的に各階どまりになり、指定階のボタンを押すなどの一切の労働になる事を行ってはいけないようになっておりました。勿論、電話に出る事も労働になりますのでほとんどの場合つながる事はありません。

 ここで皆さんも疑問に思われる事と思いますが、紀元前にはエレベーターも、電話もありませんから紀元前に書かれた『トーラ』にそんなことが書かれているわけはないと考えるでしょう。ところが全ての時代に合うように原理原則がそこにはあったのです。

 労働とは行動を起こし、二次的作動や行動を起こさなければならない作業を指します。つまり、エレベーターのボタンを押すと機械が作動します。また、電話の受話器をとるなり、通話ボタンを押すと通信がつながります。これらを指して労働となるわけです。ですから昔であれば農作業をすれば作物ができ、収穫することにつながります。勿論、現代において全てを明確に分けることはできませんが・・・・。

 休息をとる事や次の変化を起こさせることを制御させる意味でも『安息日』をとることは人類が自然と上手く共生するには必要な原理原則であるような気がします。それは以前に述べたスピリチュアリティーにも共通するものでしょう。

 必要な分だけの資源を確保し、それ以外は保全する意味でも休養日があり、量、質を含めて変化させない事も変化しないことも人類にとっては必要な事だとも思います。

 難しい事を云いましたが、物においても石油のように材料となり二次的物質に変化し、消費されていくものと原型のままダイアモンドのように残されていく物があります。しかし、前者は変化して初めて役に立ち、消費されていきます。ですから、使い方も考えなければなりません。

 強引ですが、石油は『労働で』ダイアモンドは『安息日』です。両方とも必要なものであり、皆が『安息日』の重要性をもっと理解してほしい考えています。
 安息をとることは自然を守ることにもなり、自らの鋭気を養うことにもなります。

 『シャバット』とは元々自然との共生とスピリチュアリティーから生まれたものだと考えます。これらは我が国の神教にもつながる考え方で『八百万の神』自然の中のすべてに神が宿るという考え方にもつながるものと思います。

 ダイアモンドは人の気を静めたり、鋭気を促したりと人の気持ちに語りかける事が多くあります。それらを感じる感性を持つことが人間にとっての原理原則であるような気がします。

 あえて言いますがダイアモンドは何も変化はしません。その周りにいる人の気持ちが変わるだけです。しかし、人類誕生以前から存在してきたダイアモンドが人類の感性に何らかの影響を与えてきたから現在も人類とともにあります。

 本物とは『不変』の原理原則の中にある心理で二次三次と変化していくものではないということだと思います。時代とともに変化する物に本物はないと極端な事を云うつまりはありませんが、そんな気がします。

 現代にはあまりにも偽物が多くあると思いませんか?そして、あまりにもそれに浪費をしていると思いませんか・・・・?

本物は習慣も物も残るということでしょうか・・・。

『安息日』……とってみませんか?




 

2010年12月17日金曜日

贅沢と質素

心得その2

贅沢とは下品と隣り合わせ、お金を使うことではない。

質素とは上品と背中合わせ、お金を使わないことではない、教養を裏付けるものである。

 贅沢とはお金の浪費ではなく”真”の物を身につけることでしょう。

お金を使った贅沢は必ずしも他人から羨望の眼差しを向けられるとは限らない。

最近、TV番組でセレブといわれる人々の生活が紹介されることがありますが、必ずしも羨ましいとは思いません。むしろ、下品にすら見える事があります。
一寸、やっかみもあるかもしれませんが・・・・。

 私自身、仕事柄多くの本人たちはセレブと言わない人々と接してきました。多くの場合身についた
生活をしている場合はそれに対して嫌味を感じません。

 一つの例ですが35年ほど前にアメリカで生活をしていた頃、あるビバリーヒルズの不動産ビジネスを行っている方と知り合いになりました。ビバリーヒルズで一番大きなビジネスをしておりましたが
すごく優しく、その頃の年齢で70歳くらいだったと記憶しています。

ある日、その紳士が
『カズ、ちょと一緒に見てもらいたいものがあるんだけど、時間はあるかね?』
『はい、何でしょうか?Mr ヘンケン』

『実はタミに誕生日プレゼントを贈りたいんだけど見てほしいと思ってね。』

 タミさんというのは若き日に米国に渡り、起業されブティック、免税店等を経営され
成功をおさめた日本人女性でした。

 ある日、車が故障をしてボー然としていたMrヘンケン。通りすがりの女性に助けを
求め、
『エクスキューミー、マム。車が変な動きをして壊れてしまったんだけど何とかなりませんか?』

通りすがりの女性はジーッと車を見ていると
『あら、タイヤのパンクですわ』

『そんなことがすぐわかるんですか?』

『だって、タイヤがつぶれていますもの、誰にだって解りますよ』

自分で簡単な修理もした事のないMrヘンケンはその女性を羨望の眼差しで
『すみません、直してもらえませんか?』

『エッ、私がですか?』
と云いつつ、にこにこしながら車のトランクを開け始めた。

30分後、難なくパンクの修理を終えた女性は
『はい、終了です』
と言いつつ、立ち去ろうとしたところ

『お礼をしたいのですが…。』
とMrヘンケン

その時の女性が奥様のタミさんだったそうです。

『カズ、これだよ』
と見せられたのはロサンゼルスを御存知の方なら皆が知っているウィルシャーブルバード。
日本で言うなら東京の青山通りでしょう。

『これって、このビルですか?』

『そうだよ』

『でも、ちょっと色気がないですね』

『どういう風にすれば良いと思う?』

『ビルと言われても建物ですから気持ちが伝わりにくいんじゃ・・・。』

数日後
『カズ、一緒に来てくれないかな?』

『いいですよ』

また先日の場所につくと
『今度はどうだい?』

私は思わず目を見張るとともに笑ってしまいました。

『これですか?いいかもしれません』

私の目前には大きなリボンで丸ごとくくられた30階建てビルがありました。

この話をどう捉えられるかわかりませんが・・・。

ビバリーヒルズの不動産ビジネスは基本的に当時は仲介業はあまりありませんでしたので
Mrヘンケンビバリーヒルズで一番の土地持ちということでした。また、彼は真剣に奥様を愛し
御自身の年齢を考えて年の離れた奥様に合法的に相続を考えていたのでしょう。

何時もタミさんのお店の従業員に気を使い時間があると来店をし、従業員に声をかけていました。
しかし、一度もタミさんの事業には口もお金も出したことはないそうですが、私にはヘンケンさんが
少しでも手助けをしたそうに見えていましたが奥様はそれを望まなかったそうです。

何時もチャーミングであったヘンケンさんの行った事は決して嫌みのある贅沢でも下品でもなく
むしろ微笑ましく、心温まる様子に見えたのはその行動が彼の身についたものだったのでしょう。

この続きはまた・・・。

2010年12月16日木曜日

エメラルドの伝説!?

 
 今回はダイアモンドを離れてエメラルドに関して述べてみます。なぜなら、ここにも価値のとらえ方や歴史の必然性が価値を造っている例があるからです。

 歴史上、一番有名なお話としてはクレオパトラのエメラルド好きがあります。勿論、エジプトにある今は採掘も行われていない鉱山であるエメラルドのクレオパトラ鉱山も彼女の名前に由来しています。

 彼女のエメラルド好きは入浴の際にエメラルドを浴槽に敷き詰めて疲れを取ったと言われています。また、保養効果になるとされるエメラルドを粉末にしたものをアイシャドウにしていたともいわれています。(実際には粉末にしすぎると白色になってしまいます)

 色にはそれぞれ光の波長があることはご存知であろうと思います。緑色の光の波長は生物の目に優しく精神を安定させる高価があるといわれています。反対に赤色のように精神を興奮させるようなものは目も疲れやすく疲労感を持たせます。黒板や野球場のセンターのボードが緑色なのはそのためであります。

 現代のサングラスにおいても多くは緑色のものが多い。クレオパトラの時代にそれが認識されていたかどうかは定かではないが気分を落ち着かせたのは事実でしょう。古くから緑色は目に良いということは共通している言い伝えです。

 古代ローマの偶像の目にはエメラルドがはめ込まれていたり、ローマの皇帝ネロは屋外のコロッセオで剣闘士の戦いを見るときにはエメラルドをレンズとしてはめていたメガネを使用していたといわれます。彼はそのレンズを通して剣闘士の戦いやサーカスを見ていました。

 いずれからのストーリーもエメラルドは目に良いと言われていたことがわかります。また、皇帝ネロはクレオパトラに負けないエメラルドの愛好者だったともいわれています

 それ以後も多くの権力者たちがエメラルド魅了されていきます。ナポレオンもその一人でローマ教皇に送った王冠には大量のエメラルドが納まっていました。

 インドの伝説では解毒薬として使われてある時は粉末にして飲み、ある時は患部に当てていたといわれています。ただ、このケースの場合には緑色の植物等から採取して固めたクロロフィル等の現代で言うサプリメントではないかと想像が出来ます。
 
 中世ヨーロッパでも緑色というところから自然の豊穣や癒しのためのものとして信仰され、キリスト教の中ではエメラルド《聖杯伝説》というものがあり、キリストが最後の晩餐で使った杯がエメラルドで出来ているといわれ、またその杯によって処刑されたキリストの血を受けたとも・・・・。

これが後の《聖杯伝説》となった。

以上のように歴史上まことしやかに語られる内容はどれも何らかの根拠があり、あるものを通して作り上げられた価値です。そして歴史に彩りを添えています。

 現代にはたして歴史を造り、後世に伝えていくだけの物が人造物以外であるでしょうか?

 社会的に影響を与えるような大げさなものではなく一族に残せるものを何か形で残してもらいたい。それは皆さんの存在を子孫に伝えてくれるものがよいでしょう。

 壊れたり変質や化学反応を起こさない宝石はその為に存在している事を少し頭の片隅に残しておいてください。そして、今は自分で楽しみ、自分の価値観を広げるために身につけてみてください。

 本来、宝飾品は男性の物である事を付け加えておきます。その続きはまた・・・。


目安

私の心得の中の一つに
『義務は出来ることの最低限、努力は出来ることの最大限である。そして、無理は出来ないことの最低限、無茶は出来ないことの無限大。しかし、出来ることは人それぞれである。』
 というものがある。

 人それぞれ出来る事や能力は違いますが、自分の力に目安を持つことは大事な気がします。自分を把握するのも能力だろうし、人の力や物の価値を把握するのも能力でしょう。
 
 先日、旧知のお客様がいらして
『今日は友人を連れてきたの』

傍らには白髪の品の良い御婦人が
『はじめまして、この方からダイアモンドを買うならこのお店よって
 連れてこられたんですよ』

『それはありがとうございます』
と当方

『ブランドみたいに人の作った価値を買うより、自分の価値で
 ジュエリーを造った方が贅沢よ』とそのお客様が言うと

『でもダイアモンドの事なんか私にはわからないじゃあない』
と御友人

『ゆっくりダイアモンドの裸石を見せて頂いて勉強するのよ。
 そうすればその魅力を解るし、その上で造るのよ』

『でもそんな機会は普通にはないでしょ』

『だからこちらのお店で説明をしてもらいながら自分にあった、自分の為の
 ダイアモンドを選ぶのよ。予算も含めてね・・。』
 と当方に顔を向けながら二ヤリ
 
『本来は宝飾品はそのようにしてお造りなることが一番良いのですよ。
 それはダイアモンドを通して御自分の好みとか、似合う物とかを時間を
 かけて理解することになりますからね』
 と私が話すと
  
『そんな事を考えてジュエリーを見たことはありませんでした』
と御友人

『そうなのよ、私もこちらで作ってもらうまでは考えたこともなかったわ』
『でも、私の性格も含めて好みと似合うものが違うことはこちらに来て初めて
 解ったの。』

『そこまで言われるから私も作ってみようかしらと思って伺いましたの』

『そうですか、ありがとうございます。』

・・・・・・・・・・・・・・・

色々とダイアモンドを見て頂いた結果

『本当に色々違うんですね。こんなにダイアモンドに違いがあるなんて
 知りませんでした。』と御友人

『そうですね。よく4Cのグレードの事は皆さんご存知ですが4Cは単なる
 目安に過ぎないんですよ。本当の価値はお求めになるお客様とダイアモンド
 の組合せによる結果によるんです』

『結婚相手を学歴と職業だけで決めるようなものよ』
 と傍らのお客様

『そうです。結婚相手も相性もあれば性格、家庭環境と色々ありますね。
 だからこそ相手を決める前に自分の事を解り、どんな相手なら自分に合うか
 といった目安を持つことが大事ですよね』

『そうですよね。そう言われるとよくわかります』
『ダイアモンドもそうだということですね』

『そうです。単純にブランドとか4Cだけでお求めになると着けなくなりますし
 いやになってきますからね。その辺も結婚と・・・。』
言葉を濁しながら当方

『そう、何でも一緒よ。仕事でも友人関係でも見かけだけで手掛けるとロクなことは
 ないわ』
と女性建築士であり、売れっ子のお客様が納得顔で御友人を見つめていた。

 目安に関して今回この話が見合うのかどうか分かりませんが私の中では目安を持つことが自分の行動や衝動を明確にし、後で後悔をすることがないようにする指針でもあると
思います。

そして、義務を果たし、努力をしすることにより目安を持ち、無理や無茶をしないようになり、自分に見合った価値と見返りを得るのだと考えます。

2010年12月15日水曜日

北国

 一昨日より北海道に出かけてきました。

 久しぶりのススキノの夜は極寒というほどでもなく
飲んでブラブラするにはちょうど良い感じでした。

知人と久しぶりに食事をしながら彼が最近造ったクルーザー
の話になり、店の主人も一緒になり船の話で盛り上がっていた時でした。

突然初老のお客が
『そのクルーザーはどれくらいの大きさですか?』

私の知人が
『72フィートです』

店の主人は
『これはこれはT先生、お久しぶりですね』

この初老の紳士は主人によると北海道で一番大きなクルーザーを
所有しているとのこと

『ということは私の船より大きいですね』
と紳士

何となく気まずく思っていると私の知人が
『おおっきいだけではないんですよ。最新型の機器を搭載し
 釣りをするための装備は全部そろっているので今度御一緒にいかがですか?』

私は内心
(あ~言っちゃった)
と思っておりました。

紳士はにこやかに
『それは嬉しいですね。是非・・・・。』
『私も負けないように新しいのを造らなければ』

私は世の中の景気の悪さが吹き飛ぶような話にしばし皆と一緒に
盛り上がっていると
店の主人が
『どうやったら、そんなにお金が集まるか教えてくださいよ』
と私もしたかった質問をすると

まず私の知人が
『希望ではなく、お金が貯まるにはどうするか。どういうビジネスをするかを常に考える』
というと紳士は
『その通り、あとは利益は足元にも過去にもありません。未来を考える事です』

全くその通りですと知人
『とにかく、下を見て歩かないことですよね』

前向きな二人の話とお酒と北海道の食べ物、
私も前向きな気持ちを持ちながらホテルに向かいました。

上を向いて歩く・・・・・・・・か。

2010年12月10日金曜日

ダイアモンドのこぼれ話(その2)

○ホープ・ダイヤモンド(Hope Diamond

 皆が最も耳にする世界で最も有名なダイアモンドと言ってよいでしょう。このダイアモンドは宝石の持っている価値や意味を最も象徴するダイアモンドの一つであると言えるでしょう。

特徴

・現存する最大級のブルーダイヤモンド

4552cts(重量)

・ファンシー・ダーク・グレーイシュ・ブルー(色調)

VS-1クラス(清澄度)

・クッションシェイプ(形状)

話はルイ14世(1638~1715)にさかのぼる。彼は5歳という幼い年で王位に就いたことは有名で、長く王位にいたために近世ヨーロッパの王の代表のように言われます。
彼はダイヤモンドの収集に強い興味をもち、名のあるダイヤモンドにまつわる話には彼の名前がよく登場します。

ルイ14世は幼い頃何度も内乱に遭い、そのため、「自分が大きくなった時には誰にも侵されない強い王権を樹立する」と、権力を人々に示すことを考えていた。
彼は絶対的な力をもつようになると、略奪品から献上品、購入したものまで、実に多くのダイヤモンドを集めた。コレクションを増やしていくことで絶対的な権力の誇示と財力を築き上げていきました。

貴族たちはルイ14世に気に入られるために競ってダイヤモンドを献上した。日本での参勤交代に似ているが、結果的に貴族たちは経済力を弱め、力が削がれていき、一方で、気に入った部下や貴婦人には惜しげもなくダイヤモンドを贈っていきました。それがルイ14世の政略であったとすれば、ダイヤモンドが歴史をつくったといっても過言ではないかもしれません。

このルイ14世のコレクションの中にあったのが「ホープ・ダイヤモンド」である。

 「ホープ・ダイヤモンド」の名前は、後の1830年にこれを購入したイギリス人宝石コレクターであるヘンリー・フィリップ・ホープに由来する。その後、トルコのサルタンを経てパリのカルティエの元へ、さらにワシントンポスト社オーナー、エドワード・B・マクリーンの夫人、エバリン・W・マクリーン夫人へと売却された。彼女は彼女の死後、ハリー・ウィンストンが購入し、1958年にワシントンにあるスミソニアン博物館に贈呈されました。

インドで発見されたこの石は、それを所有する者は「呪い」に付きまとわれ、謎の死を遂げたり、悲劇を招いたりすると言い伝えられていました。

極めつけはルイ14世の後に、それを手にしたルイ16世の妃、マリーアントワネットが断頭台に送られたという話でありました。しかし、これは間違いで、彼女の所有していたブルーダイヤモンドは「マリーアントワネットブルー」といわれる5・46ctsのハートの形をしたもので、まったく別物でありました。しかし、そうした悲劇がまことしやかに伝えられたところに、ホープ・ダイヤモンドが、いかに特別な石であったかということでしょう。

ちなみに、彼女もまたダイヤモンドと真珠には目がなかった。彼女は重厚な宝飾品は好まず、シンプルなものを好み、それが現代の宝飾品のデザインにも影響を与えているといわれています。

前出のマクリーン夫人が所有している間、彼女は9歳の息子を交通事故で亡くし、娘も自殺するという不幸に見舞われたという余談までありますが・・・。

私が述べたい事はダイアモンドは何も変わってはいません。変わったのは周りの人々の心と環境です。つまり、ダイアモンドは持つ人の環境や心により幸せの象徴にも不幸にもなるということで、ダイアモンドのせいではありません。しかし、ダイアモンドが持つ人の心の何かに影響を与えることは間違いがありません。

ダイアモンドは古代から歴史を綴った人類よりも先に地球上に存在し、人類が歴史を造るうえでダイアモンドが大きな役割を果たした事は間違いがありません。

是非、皆さんの歴史を残すうえでもダイアモンドをもっと知って周りにおいてみてください。きっと幸せづくりの手助けをしてくれるものと信じています。

2010年12月9日木曜日

物で残す時代!?

 最近のビジネスシーンを見ているとやたらと携帯ゲームの会社の伸びや色々なソフトの売上の伸びが感じられる。携帯ゲームだけで一千億円市場とか以前なかった業種が目につく。しかし、多く消費が目に見えないものとか、残らないものに向かっている。
 
 お金が物に代わるということは前時代的な感覚があるかもしれないが、知的価値がお金に変わる事を否定はしないが何か不安である。つまり、物で残ることは時代が流れてもその変化は少ない。しかし、知的価値は時代とともに、また瞬間的に価値観が変わる可能性がある。
 
 何百年前のものがものであれば残るが知的価値はよっぽど歴史的価値がないと残らない。現代では未来に残らないものの市場が氾濫している事を考えると少し不安です。

 それほど大げさな話をするつもりはないのですが、昨今だけを考えても物に代わる消費を心がけた方が良いような気がする。そこでダイアモンドであるが人類史上最も古く、最も形状が変わらず、価値をも保ち続けているダイアモンドは奇跡である。

 今こそ将来を見据えて、物を残す時代である。皆でダイアモンドを買いましょう・・・といった話をしたかったのですが理屈っぽくなりすぎました。・・・・・・・・・失礼!!

2010年12月8日水曜日

スピリチアリティー!?

 自らが自然や神(科学で解決し得ない超常現象)に繋がり、自らを回復して行く流れである。つまり、前に進むための健康的な心身に誘う手段であり思考です。

 他者に依存するのではなく自然とともに自立を目的とする神道の精神、つまり八百万の神との其々の共生です。

 集団であれ個々であれ万物の中に神が存在し、それらが其々あらゆる環境で共生している。それが自然であり、それらとの正常な共生状態に持って行くことが生きることであり、生活をしていくということです。(有機物であれ無機物であれがお互いが助け合うことにより多くの人々が自然に前へ進む生き方をできるように努力をする)

 ダイアモンドはその自然界の中で最も強く、そしてある種の波動を出し、それをスピリチュアル的に感じる人へ前に進む力を与えている間違いがない。その事が全ての疑問を解決してくれる。

 なぜ、ダイアモンドなのか?

 古代より何らかの形で権威に象徴であり、身を守るものとして珍重され、そして現在においては金融商品としての横顔を持つ。その上で女性を喜ばせる美しさを持ち、興奮させる。

 オーラとは自然力を表わす発散するエネルギーである。それは人によって違い成長過程でどのような自然と関わってきたかということが大きな要因であると考えられる。
つまり、ダイアモンドのような地球創世期より自然に関わってきた存在は何よりもオーラが強く、それを身につける事により、ある種の自信を持ち生きる力を与えてくれるのです。

ダイアモンドはスピリチュアルの最高峰に位置するものであり、その存在は無二なのである。

ジュエリー・・・・って?

最近知り合った方がお店に来られた。

『先日はどうも・・・。』
とにこやかに店内へ

『実は娘からせがまれちゃいまして』

『そうですか。とにかくお座りになってください』
椅子をすすめる。

『実は先日、宝石をやっておられる方と知り合った話をしますと
 スワロフスキーペンダントがほしいというんですよ』

『髙木さんのところではお取扱いになっているかなと思いまして・・。』
と申し訳なさそうな顔をしながら・・・。

『申し訳ありません。私どものところでは扱ってはいないんですよ』

『あッ、そうなんですか。』

『そうなんです。皆さんもよく勘違いなさる方も多いのですがスワロフスキーは
 人造のガラスでアクセサリーというか装飾品ではありますが宝飾品ではないんですよ』
『つまり、本来のジュエリーというものとは異なるんです』

『見た目には変わらないような気がしますが、もし良ければ違いを教えてもらえますか?』


『確かに見た目には似たような感じですが、素材の違いが一番大きいと思います』

『解りやすく日本語で言いますと、先ほども言いました宝飾品とは本来、貴金属または
 宝石を素材としていることが絶対条件になります。もちろんそれに他の素材が付随することも
 あるかもしれません。』

『ということは当然それなりのお値段になるということですね。』
と興味深そうなお顔・・。

『そういうことになりますね』

『でもお安い宝石もありますよね。よくその辺のショップにあるもので』

『そうですね。でも宝石の条件に希少性という条件があります。ですから半貴石といわれる
 色石であっても必ずしも宝石と言えるわけではありません。』

『難しいですね』

『そうですね。宝石とは石の種類では必ずしもないんですよ。』

『なるほど・・。』

『極端なお話になりますが、鉱物学的にダイヤモンドであっても大量にとれる
 質や美しくないものは宝石ではないんですよ。つまり、人工的に特に機械によって
 大量に作られるものは宝石とは言えないわけですね』

『つまり、宝飾品とは希少性が高くて美しい物ではなくてはならない。
 そして、こちらのお店はそれらを取り扱っているということですね。』

と納得したようなしたり顔をなさりながら

『そして、うちの娘にはまだ早いということになりますね』
と笑いながらホッとしたような様子。

『お早いかどうかわかりませんが段階はあるでしょうね。
 そういう意味ではスワロフスキーは良いかもしれませんが
 その先に本物があることも一緒にお伝え下さい』

『いや、いい勉強になりましたよ・・。今度は女房のを見に来ます。』

『そうですね。クリスマスも近いことですから…。』

こちらのさりげない売り込みに笑顔を見せながらお帰りになりました。

安物買い

最近、皆が節約や倹約をしているように見えるが実際には数年前以上に皆がお金を使っているように見える。ユニクロ、二トリ等の低単価店や量販店は今や花盛りである。携帯電話にしても以前はほとんどの人が必要とはしていなかったし、本当はなくても困らない。それが悪いといっているわけではなく、その事に慣れすぎて本物を買わなくなっている。つまり、安い物を買っているから贅沢や無駄遣いをしていないように見えるが、実は大いなる無駄遣いをしている。低単価のものに散在して、簡単に捨てる。良いものを手に入れて、長く使うことが本当は倹約であり、節約であり、エコである。俗にいう『安物買いの銭失い』である。本来の良いものを作っている日本の製品を使わず、安い海外のものにばかり目を付けている事自体が心配である。いずれ、身に降りかかってくる。いや既に我々の生活に明らかな影響を及ぼしている。少しは考えようではありませんか。老婆心ながら・・・。

ファンシーカラー、カットダイアモンド

前回は半年前に行ったショーですが色々と物語がありました。
その時いらしゃったファンシーダイヤモンドに感動されたカップルからご連絡がありました。
それは、「あのダイアモンドに出会ってから宝石に対する考え方が変わりました」
というものでした。

男性の方からはその後、「あのダイアモンドをぜひ手に入れたい・・・。」と何か目標を見つけたような紅潮した様子がうかがえるような連絡がありました。

ちなみにあのダイアモンドとは「ファンシーオレンジ」というオレンジとイエローの混じった綺麗な
0.7カラットの珍しい色のものでした。

『あの時に自分の何かが変わったようです。その為に前向きな気持ちになっていたら滞っていた仕事が前回と同じプレゼンをしたはずなのにすんなり決まり、気持ちの大切さを「あのダイアモンドとの出会いから教わったような気がする」というものでした。

女性の方からも 『前回あのダイアモンドを手に入れることができなかったので「一期一会」なるものが他にもあるかもしれないと思い、毎日のように会社帰りに宝石店をのぞいているが心に響くものには出会えない』 というものでした。

ご両人からの共通の疑問は
「あのような稀有なダイアモンドがなぜあのような価格(安価)であったのでしょうか?」
ということでした。

小生の答えは『人それぞれ環境や状況により心境が違うものです。その時心に響くものも違います。たまたまご両人のその時の心境で感動されたのがあのダイアモンドだったのでしょう。価格は単なる目安です』

ダイアモンドの価値はよく4C(カラット、カラー、クラリティー、カット)で説明されますがそれはダイアモンドという材料の説明に過ぎず、価値の半分を表しているだけです。本来のダイアモンドの価値はそれ以外の半分が大きいのです。

毎回、イベントを行うと何かの物語が始まります。今回も12月9日から3日間ファンシーカット、カラーダイアモンドのイベントを行います。今回も何かが起こりそうな気がします。是非ご来店ください。

2010年12月6日月曜日

ダイアモンドのこぼれ話(1)

 ダイアモンドの和名は『金剛石』といいます。これは江戸時代から使われており、明治時代に外交官のダイアモンド持込みを合法的にする為に貿易白書に記し、初めて公文化されました。つまり、外交官が海外でもらった賄賂に税金がかからないようにしただけですが・・・・。

 金剛とはサンスクリット語を起源とする仏教用語で神仏を守る絶対的力を持つ守護神を意味しています。寺社を守る門前にある『金剛仁王像』の由来はそんなところからきています。また、ダイアモンドの名前の起源は古代ギリシャ語の「硬く侵されることのない存在」を意味する『アマデス』と、「白く透明」を表す『ディアファネス』が合わされた「透明で硬いもの」とされています。

古代より古今東西に関わらず、守護の象徴として珍重され、その美しさから身に纏うことにより神々しさと気品を演出してくれる存在として人類とともに歩んできました。本物を身につける事の意味合いは理屈ではなく、歴史が解説をしてくれます。美しさは伊達ではないということでしょうか・・・。

守護神としておひとついかがですか・・・?                                     

2010年12月4日土曜日

総論と各論

世の中には総論と各論があり、その組合せが世の中の仕組みを潤滑させる。
国という総論は国会が行い、各論は各自治体が行う。

今の日本の政治はどうだろう。

国会議員が各論に終始し、自治体と縄張り争いをしている。総論でイエス or ノーを
決め、後はそれぞれの自治体や役所が各論を解決する方法を考えればよい。

国会議員が各論に首を突っ込み、自治体や役所の言い分を国会で物かあっている。

本当にバカバカしい。

総論で物を考える事は目標とか行き先を決める戦略を決めればよい。後はそれを
実現させるために、戦術を自治体と役所が練れば良い。

もっと大きく国を見る事が出来る政治家はいないものか。
実に落ちぶれた国家になったものだ。

情けない・・・。