ITが普及してというかIT社会になって時間もだいぶたった。
でも、なぜかしっくりこないのです。
馴染まないということではないのですが、以前にも述べた総論と各論に
近いものがあるのですが、元々はと言えば『離島も首都圏も平等』になる
といった未来像がありました。
確かにビジネスにおいては地方も大都市圏もある意味においては差がなく
なりました。しかし、先日TVを見ていて離島では中学校を卒業すると本島の
高校に行くために家族ごと移り住むので人口の過疎化がどんどん進んでいる
ということです。
このIT社会においてはインフラで整備ができているようで一番必要なところで
行き渡っていないように感じます。なぜなら、この時代、ネットを通して高校教育
等はいくらでもできると考えます。それは通信教育をはるかに超えた環境です。
インターネットを使い本島の高校の授業を同時に受ける事はさして難しい話では
ないはずで、本来はそういうこと基本にITは使われるはずだったと思います。
ビジネス偏重の時代なのか世の中の考え方の偏重なのか、違和感を感じるのは
私だけでしょうか?
『そもそも論』としての総論が各論に曲げられてるような気さえします。
ゲームの配信やスキャンダルの配信、ましてや出会い系サイトを一生懸命やっている
くらいならもっと他にやることがあるような気がします。
政治の世界においても、小沢問題がその取り巻きの連中が、
さも小沢氏が言っていることが正しいかのような擁護論を振り回しています。
彼らの言っている理屈はほとんどの国民は分かっているわけです。
司法の場に移っているとか法を順守しての行動であるとか・・・。
ここでも、そもそも法律は政治家が立法府で作っているものなのだから法を
順守して当り前で、その上で、政治家は法律さえ守っていればよいのか、
ということだと思います。つまり、政治家は倫理観が一番大きく前提となり、
法律に触れていなくても倫理として行ってはいけないことが沢山あるわけです。
政治には金がかかり、政治家はお金が足りないと嘆いている若い政治家が
多い一方で、なぜ一人の政治家があんなに沢山の秘書を抱え、お金を自由にできるのか?
・・・単純な疑問を国民は持っています。
どちらの言っていることが本当なのか?
もしくは特定の政治家にはお金が集まるようになっているのか?
これらの疑問には司法の場とは関係なく、国会という場で議員として何らかの
結論を出すことは当り前だと考えます。
IT社会、政治、ビジネス、人間社会など関係なく、本来はという考え方をすること
によって見えてくる事は多いのではないでしょうか。
世の中にある事物は何かの理由があって存在しています。
事物に理由を後付けしていると、間違っていないように見える事が実は目先の事
になったり、その場限りの事になったりしてしまうのではないでしょうか。
逆に言うと事物がそこにあるということは何かの理由があって存在しています。
事物の存在の『そもそも論』を考えてみる事も現代においては必要なことではないでしょうか?
何時もの事ですがダイアモンドにも存在理由があります。
何の役にも立っていないようで最も人類と永く寄り添い、歩んできた事には理由があります。
そこに気がつかないことが現代の偏重状況を現わしているようです。
もう一度立ち止まって考えてみたらどうでしょうか。正月も近いことですし・・・・・。