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2015年11月24日火曜日

負の連鎖⁉

昨日いらっしゃったお客様の娘さんが26歳になり、自分自身が想像をしていた26歳と現状の自分が違うといっていて嘆いていたわけではないけれど、ため息をついていたとの事でした。

 確かに過去の25歳はOL生活も3~4年を迎えアフター5にはレストランで友人たいと食事をしたり、観劇をしたりしてOL生活を満喫していたイメージがあります。勿論今でも一部のOL達はそのような生活もしているのでしょうけれど、多くの現実は違うようです。

 その娘さんは芸術とは言わないけれど、ある意味特殊な職種を目指しており、現在はバイト生活で毎日チャリンコ通いということです。しかし、彼女は芸大を出、海外へもその種の勉強に行きそれなりに充実をした生活を送っているように見えます。

 彼女のような例は別にしても確かに最近のニュースを見ていても若い女性の犯罪や考えられない様な事件が多くあります。本当であればそれなりの人生を送るのだろうと考えられる様な女性たちも多いように思われます。

 世の中のせいにするとすべてが解決をしないのでしょうが、現在の社会そのもののスタンダードが違っているように思えてなりません。コンサバティブな考えといわれてしまえばそれまでですが、もう少し、本質的な物の見方をしてみたらどうかと思うのです。

 世の中がそうだからではなく、本質的な事をとして原則論はどこの国にも法律としてあるのだろうとおもいます。『全ての国民は幸福になる権利がある』といった事はどこの国においても常識でもあるのだろう。しかし、現状はどうか?性善説、性悪説で物事が分けてしまえばそれまででありますが、『総論賛成、各論反対』ではないけれど『理想は解りますが、現実的にはそうではありません。』といった声がよく聞かれます。

 本音と建て前とい言葉があるように、本音ですべてを解決は出来ないし、建前という言葉はある種の縛りであり、法律でもあるのでしょう。ただ、法律にのっとっていればなにをしても良いかというのはそうではないとおもいます。

 単に人間が生きていく上で本音で生きていく事も良いでしょう。しかし、人間生活には社会というコミュニティーが不可欠です。そうなると、目安として十代であればこんな風、二十代であればこんな風、といったようにある種の尺度があっても良いのだろうと思います。しかし、現代は意外とフォーマルが否定をされ、カジュアルが人間らしいといった事で肯定的な見方がされがちです。それは楽だからかもしれません。

 どちらも丁度よい具合になれば良いのですが、人間は都合の良い方に流れます。特に集団になるとですが・・・。

 話は飛ぶように感じるかもしれませんが、先日のパリのテロに対する対応においても本質的はものの一致を見ずしての解決なくしては、フランスの報復攻撃が当たり前のように一般的には捉えられています。しかし、9月からのフランスのISIS攻撃とされているもので一般人が三百数十名が命を落とし、そのうち九十数名が子供だといいます。

 単なる報復が事を解決するのでしょうか?一定の建前をそこにはあるという事でしょうが、その建前が間違ってはいないだろうか?確かに現実なのであろうと思いますが、それが間違っていれば負の部分は無くならないのではないだろうか。

 前段の部分とは話が変わっているように感じるかもしれませんが、理解や感じることが容易な方だけを選択していて良いのだろうか?といったことを問いたいのですが、本音で生きることもあ大事、でもそこには社会という集団がある。

 集団に流されると間違っていても否定が出来にくくなります。しかし、本音だけで生きると社会から外れる事になり、場合によってはそれが法律を犯すことにもなります。

 これ等のバランスを上手く取れなくなってきているという事が負の連鎖を起こしているのではないだろうかと感じる次第です。全てにおいてです。

 『其れが人間だから』という事になれば人間は来てはいけないところまで来てしまっているような気さえします。
http://ameblo.jp/diamonrow

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