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2019年4月2日火曜日

『令和』に見る現代の危うさ⁉

 新年号が『令和』と決まり、そのことは予想の範囲の困惑程度で、最初はネガティブな意味でしっくりきませんでしたが、言葉の意味というものを聞いて『厳しい冬を終えて春の息吹と香りに期待をし、穏やかな国民生活が出来るように』という想いということです。

 安倍政権も今が冬で厳しい状況にあることをやっと理解をしたんだなと希望を込めて理解をしたいものです。

 何よりもビックリしたのが多くの国民のお祭り騒ぎです。主要駅の前に集まり号外を我先にと群がる大衆を見てびっくりしました。そして、その号外を早くもネットオークションに挙げられているのを見てさらに呆れる思いです。それはいつの間に日本人はこんなにさもしくなったんだろうという思いもあります。

 《令》という感じの意味は冠の下に人がひざまずくという意味合いが漢字の成り立ちですが一般的にも命令、指令等に使われるように『言いつける』や『掟』など戒める意味合いの言葉として認識している人が多いと思います。万葉集の前後の意味合いを言葉に乗せているだけで実際には冒頭に政府が説明をした意味とは少し違うようです。

 ただ、現代人はそんなことは気にしないという人も多く、意味というよりは耳当たりというか耳になじみやすい事が重要なのかもしれません。

 多分、若い層は漢字で意味合いを判断するという事は習慣的にも文化的にもありませんから、それほどの抵抗はないのかもしれません。

 しかし、そこに今の日本の大きな問題がここに潜んででいるのかもしれません。つまり発想も感じ方もアナログではなくデジタルになっている人があまりに多くなってきたという事です。

 デジタルは無限でアナログは有限です。それゆえに物事の重要さや愛しさというものに差が出てきているような気がします。無限なデジタルには終焉の悲しさや愛しさというものはありませんが、有限である例えば桜のように短く散り行くから愛おしく感じるのであって、もし一年中咲いている状況であったならここまで日本人は愛でる喜びを感じるだろうかと考えます。

 この部分に危うさを感じるのは私だけでしょうか?
https://ameblo.jp/diamonrow

 

 

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