災害はいつも想定外の時に起こります。
人間は自らの英知におぼれている事はないだろうか?
いつも災害が起きるたびに感じることがあります。それは、自然には勝つことが出来ない
という事です。必ずそのたびに言われる事は「想定外の大きさ」などと言われる言葉です。
想定内で起きていたならば、災害になどならないのですが、自然はいつも人間の想定を
超えて物事を起こすものだという想定はないのだろうか?
もしかしたら想定をすることが出来ても、それを実現するにはそれなりのコストを払う事に
なるのでしょう。」つまり、税金や其々の費用を其々が負担をするという事になるのです。
以前、荒川だったと思いますが「スーパー堤防」を造る構想が進み、住民と行政の間、
又は、推進派、反対派の間で「数百年に一度の災害、それも起こるかどうか解らない事」
に税金を投入するのは如何なものか・・といった論争が今も続いているといったことが
ありました。
当り前の議論ですが今回の災害はその例に当たるのでしょうが、はたして防げたの
でしょうか。多くの人の答えは「NO」だと思います。
人間にとって数百年の事は自然にとっては数秒のことに過ぎないのですから、何度でも
想定外はやってくるのです。
しかし、人類は常にそれをリカバーしてきました。(もし今の文明の前に栄えた文明が
なかったとしてですが) しかし、それは自然の中の一活動に過ぎません。
今回の二次被害は原子力発電所の崩壊ですが、自然被害を何時も大きくするのは人間
の作った人災です。人間の進化は所詮自然の営みの中の一現象に過ぎません。
人間は進化の方向をそろそろ考えて方がよいのかもしれません。過度な心地よさや
贅沢の為の進化は常に大きな災害に輪をかけることになります。歪んだ進化や場当たり
的な物は避けた方がよいのかもしれません。
「自然とともに」とか「ロハス」とかいった言葉がよく囁かれますが、動植物のように生きる
為の進化はあるべきですが、贅沢や欲望の為の進化は見直す時に来たような気がします。
周りを見てみてください、本当に生きるために必要なものばかりですか?
勿論、欲望も必要です。
それがなければ、進化もしませんし、やはり必要悪で自然な中で育まれた人間の特性
でもある訳ですから。ただし、人間自身がやはり進化としてそういった事を見直す進歩を
見せても良い時期に来ているのではないでしょうか。
我々人間は自然に育まれ、自然を超える事は絶対あり得ないといった謙虚な姿勢が
必要なのではないでしょうか。
我々日本人の原点は「神道」です。八百万の神を崇めるという事は自然におきた事、
全てを受け入れるといった謙虚で寛容な精神だと思います。しかし、これは何でも諦め
安いといった精神構造にも紙一重です。
いずれにしても自然を超える事は出来ないのですから、常にその対処に対して大きな
コストを割くべきであって、快適さに大きなコストを割く事は大きな二次災害に結び付くという
事になるのでしょう。
自然の中で変化をしない事は難しい。それは何時も人間の想定外の自然が変化をさせ
るが変化をしない物もある。
それはダイアモンドです。
これはある意味想定外です。
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