先日行われたサザビーズ、クリスティーズ両オークションで5.04ctsと12、11ctsのブルーダイアモンドが落札をされ話題になっていますが、それぞれ日本円にして約11億円、17,5億円という高額で落札をされました。勿論現物資産として運用と考えられます。
1970年代中頃、ロサンゼルスはまだ古き良きアメリカであり、アメリカンドリーム真っ盛りの次期でした。私はそこで生活を送りながらある意味希望に満ちていました。見るもの聞くもの物も珍しく、TVドラマでしか見たことがなかったハリウッド、ビバリーヒルズ、そしてその数年前に日本で放映され流行ったTVドラマの『サンセット通り77番地』とTVを通して馴染みの有ったものが次から次と目の前に現れていたのです。
一方、世界でも有数の犯罪都市でもあり、私自身も何度かその中に巻き込まれそうになったことがありました。更には終戦間もないベトナム戦争の帰還兵の問題やベトナム難民の問題と病めるアメリカがそこにはありました。
私自身は大學へ入るための準備として州立の語学学校へと通学する毎日を送っていましたがその中にベトナム難民としてアメリカに渡ってきたベトナム人(当時の私は壮年と思っていましたが今考えると50代位)の男性がおりました。偶然隣り合わせた為にお互い片言の英語で話をすることも多く彼の身の上話を聞くことがありました。
彼はその時ロサンゼルスのダウンタウンでパン屋を営んでいましたが、当時の知識の浅かった私には事情も分からず彼の話を聞いていました。彼は当時の南ベトナムでパン屋を営んでいましたが、戦火が南に及ぶにあたり、家族とともにベトナムを逃げ出し、難民として船を探し海に出て結果的に日本の漁船に助けられ、その後渡米をしたという事でした。
当時の日本ではベトナム難民のニュースは日常茶飯事で特に私も当たり前のように受け止めており特別なものとしては考えておりませんでした。しかし、難民であった人を目の前にし、興味を持たざるを得なかったのです。
そこで何故彼がパン屋なのか?(戦争前はフランス領であり、フランスの影響もあり、パン文化が進んでいた)ごく普通にパン屋の仕事に就き、自らの店を持つようになった話や、そこで成功を収めていたことや戦況が悪くなり、その後難民となった事。何故アメリカに渡ったのか?(当時のアメリカは南ベトナムの難民に対しては積極的に受け入れていた)などの話を聞き、日本にいた時に見聞きしていたニュースを身近に感じたものです。
一番の疑問は難民で来た彼がなぜにアメリカに来てパン屋を営むほどの資金があったのかということでした。その答えはしばらくして私が大学へ行くためにその語学学校を去る時でした。
『KAZ,今日ランチを一緒にとろう』
彼が声をかけてきて、
『君がダイアモンドの仕事をしていたことも分かったし、まじめな人間であることも分かったからこの間の質問に答えよう。』と言ってくれたのでした。
彼はベトナムで成功をした資産をダイアモンドに替え肌身離さず身に着けていたという事を聞かせてくれました。最初はどこの誰かもわからない人間に話せる内容でないことも理解をしました。
ただ今はダイアモンドを換金し、それを資金に開業をしたという事でした。今はもうダイアモンドを持っていないので頑張ってまたダイアモンドを買いたいものだというような話をした覚えがあります。
しかし、これは私が漠然と考えていたダイアモンドの資産性というものをはっきりと認識した瞬間であり、その後ダイアモンドのビジネスを目指したきっかけになったことは間違いがありません。
https://ameblo.jp/diamonrow
1970年代中頃、ロサンゼルスはまだ古き良きアメリカであり、アメリカンドリーム真っ盛りの次期でした。私はそこで生活を送りながらある意味希望に満ちていました。見るもの聞くもの物も珍しく、TVドラマでしか見たことがなかったハリウッド、ビバリーヒルズ、そしてその数年前に日本で放映され流行ったTVドラマの『サンセット通り77番地』とTVを通して馴染みの有ったものが次から次と目の前に現れていたのです。
一方、世界でも有数の犯罪都市でもあり、私自身も何度かその中に巻き込まれそうになったことがありました。更には終戦間もないベトナム戦争の帰還兵の問題やベトナム難民の問題と病めるアメリカがそこにはありました。
私自身は大學へ入るための準備として州立の語学学校へと通学する毎日を送っていましたがその中にベトナム難民としてアメリカに渡ってきたベトナム人(当時の私は壮年と思っていましたが今考えると50代位)の男性がおりました。偶然隣り合わせた為にお互い片言の英語で話をすることも多く彼の身の上話を聞くことがありました。
彼はその時ロサンゼルスのダウンタウンでパン屋を営んでいましたが、当時の知識の浅かった私には事情も分からず彼の話を聞いていました。彼は当時の南ベトナムでパン屋を営んでいましたが、戦火が南に及ぶにあたり、家族とともにベトナムを逃げ出し、難民として船を探し海に出て結果的に日本の漁船に助けられ、その後渡米をしたという事でした。
当時の日本ではベトナム難民のニュースは日常茶飯事で特に私も当たり前のように受け止めており特別なものとしては考えておりませんでした。しかし、難民であった人を目の前にし、興味を持たざるを得なかったのです。
そこで何故彼がパン屋なのか?(戦争前はフランス領であり、フランスの影響もあり、パン文化が進んでいた)ごく普通にパン屋の仕事に就き、自らの店を持つようになった話や、そこで成功を収めていたことや戦況が悪くなり、その後難民となった事。何故アメリカに渡ったのか?(当時のアメリカは南ベトナムの難民に対しては積極的に受け入れていた)などの話を聞き、日本にいた時に見聞きしていたニュースを身近に感じたものです。
一番の疑問は難民で来た彼がなぜにアメリカに来てパン屋を営むほどの資金があったのかということでした。その答えはしばらくして私が大学へ行くためにその語学学校を去る時でした。
『KAZ,今日ランチを一緒にとろう』
彼が声をかけてきて、
『君がダイアモンドの仕事をしていたことも分かったし、まじめな人間であることも分かったからこの間の質問に答えよう。』と言ってくれたのでした。
彼はベトナムで成功をした資産をダイアモンドに替え肌身離さず身に着けていたという事を聞かせてくれました。最初はどこの誰かもわからない人間に話せる内容でないことも理解をしました。
ただ今はダイアモンドを換金し、それを資金に開業をしたという事でした。今はもうダイアモンドを持っていないので頑張ってまたダイアモンドを買いたいものだというような話をした覚えがあります。
しかし、これは私が漠然と考えていたダイアモンドの資産性というものをはっきりと認識した瞬間であり、その後ダイアモンドのビジネスを目指したきっかけになったことは間違いがありません。
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