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2012年9月29日土曜日

相手の立場に立って?

 今朝のNHKの番組の中で対中国の件が話題になっており、解決者の人々が

『日本の政府の言い分も解るが、中国サイドに立ってみるとメンツをつぶされたという事で怒っているいるのだから相手のメンツをもっと考えるべきだった』

 一応に口をそろえていっていましたが、私には違和感がありました。

 日本という国をどれだけ屈辱的な言葉や行動でけなして来たのか、中国政府高官や中国メディアを始め多くの中国人が日本人に対して行った行動は日本人のメンツをつぶしはしなかったのか?

 報道は事実の一部である事も、多くの中国人が日本にいてこの件を嘆いている事も良く解った上で述べさせてもらうなら日本人はもっと日本人というものを理解してもらう努力も必要だと思います。

 私は仕事柄、多くのユダヤ人の友人がいます。というよりほとんど友人と呼べるのはユダヤ人です。彼らとは何度もやりあいながら数十年の時を過ごしてきました。

 勿論、そこにはビジネスという共通の利益があるので、いさかい事で離れる事もなく時を過ごしてきました。その結果、彼らとは友人と呼べる間柄になったような気がします。

 翻って、日本ではという事になると最初親しくしながらも何かいさかいがあるとお互い何も言わずただ離れていくだけという事が多い様に思います。

 国と国では物理的にも離れることはできないのですから、共通の利益がそこに存在するなら、お互い握手をしながら殴りあう事も必要なのだと考えます。何もせず、相手の立場に立って考えて、自らの意見は抑えておこうと思っても、相手に通じるものではありません。

 日本は今までも事なかれ主義でやってきたのですが、日本に勢いのある時は相手がこちらの顔色を窺ってきていましたし、相手にする事もなくやってこれました。

 しかし、今は違います。対等かもしくは向こうの方が上にある状況で何も言わず、相手の立場に立っていたなら、日本という国は滅びていくでしょう。

 よく、中韓は日本の戦争責任について言いますが、戦後日本はどれだけの援助をし、その責任を果たしてきたのでしょうか?生半可な金額ではなかったはずです。そのうえ、国連にどれだけの資金を拠出してきたのでしょうか?私の記憶が正しければ世界で一番でしょう。

 もう少し日本は自らのアイデンティティーを主張しても良いと思いますし、オリンピックやワールドカップのように日本の誇りを持っても良いのではと考えます。

 その上でお互いに本当に理解し合った時にはじめて相手の立場に立って考えるべきではないでしょうか?黙っていればそのうち収まるという事はまずないと考えた方がよいでしょう。多くの国はもう日本からのメリットはあまりないと思っているのでしょうから、日本は自らの立場を説明するだけではなく、相手たいしてもっとディベートを挑むべきです。

 グローバリゼーションとはボーダーがなくなったと理解するだけではなく、世界は皆同じではなく其々の存在を主張しながらローカリゼーションを打ち出してくことが本当の意味でのグローバリゼーションだと考えます。

 絶対的価値というのは他との違いが打ち出されて、それを皆が認めることから確立します。
ダイヤモンドが絶対的価値を何百年も維持できるのは他に追随を許さない価値があり、それを守ろうという人々がそこにいるからです。もし、ダイヤモンドも他の宝石も変わらないという事であればダイヤモンドは勿論今この場にありません。

 ダイヤモンドは誰もが認める価値がそこにあるように、日本も自らの価値をアピールし、その価値を認めさせてから方が相手もこちらの意見を飲むのだろうし、相手の価値を理解してこそ相手の立場を理解が出来るのだと思います。

 世界のどこの国も先に相手の立場を考える国は少なくても私が知る限りありません。私がよく訪れるイスラエルはその典型的な国だと言えます。しかし、彼らがイラクや近隣諸国の立場を先に考えたらあの国はとうに存在していないでしょうし、危なっかしくてイスラエルには出入りできません。

 イスラエルは自らの主張を強く出し、武力によっても威圧することにより彼らの存在があります。それが崩れた時に紛争が起き危ない国になるのです。今の彼らの主張が続く限りは彼らの国は日本より安全なのです。

 これらの内容は決して右よりな発想で述べている訳ではなく、其々の価値を認め合う事は大事であり、片側だけが相手を認めても、なんら意味がなく双方と周りが認める価値がなければなんのテーブルの上にものぼらないという事が言いたいのです。

 

 

2012年9月27日木曜日

ダイヤモンドの明と暗!?

 昨日、自由ヶ丘近くの踏切で面白いといっては失礼ですが、非日常的な光景を目撃しました。踏切で警報が鳴り始めてから遮断機があり、左右交互に降りて来ますが人によっては急ぎ渡り、人によっては余裕を見せながらのゆっくりと渡って見せます。

 その中で後者であると思いますが、老年紳士がおっとり刀を決め込んでゆっくりと渡っており、小生は見ていてあれ間に合うのかな?と思いながら見ておりました。ゆっくりと降りてきた遮断機のバーはおもむろに老紳士の頭へ・・・。余裕を見せて渡ったのでしょうが目測を誤ったように見えました。

 それまでゆっくりと歩いていた紳士は頭を抱えながらそれまでとは違った勢いでその場を離れていきました。自信があっても何があるか解らないので多少の余裕は持った方がよいでしょうね。

 と・・・・。この話が今回のタイトルではなく、一昨日買取をご希望のお客様がおいでになって18金のペンダントをお持ちになりました。

 『実は90万のお値段が付いていたものですが、30万にして頂いたので、頂いたのですがやはり気に入らなくて、付けないので引き取っていただけるかなと思いまして。』

 『そうですか、とにかくお見せください』

 『御幾らで引き取ってもらえるのでしょうか?』

不安げに私の顔を覗き込む彼女は期待も込める眼差しを向けていました。

 『正直いいますとご期待に添えるお値段にはならないですね』

 『やはりそうですか・・。』

 多くの場合このような会話が行われ、最初についていた値段は何だったのかという事になります。しかし、これは其々の販売店の姿勢や考え方の問題であるとともに、ダイヤモンドの持つ性質を理解していない事の不幸です。

 よく《卸価格で小売販売》なるコピーを見ますが実質的には消費者が手に入れた価格が小売価格な訳です。つまり、値引きされた後の価格が消費者と販売者の間で決定した小売価格な訳です。

 様々な場面で宝飾業の危うい場面に遭遇すると私達が業界に足を踏み入れた頃とは違う印象を消費者は業界に持っている事は非常に残念であります。私達には誇りがあったのです。

 まずダイヤモンドだけについて触れますが、ダイヤモンドはジュエリーのや婚約指輪の素材として日本では広まり、その事は良い事だともいますが、4Cなるグレード重視で来たにもかかわらず、重量が大事であると一方では述べてきていました。

 どちらも間違いではありませんが取り扱う側がそれを間違った方向で使用してきたと言えるのではないでしょうか。

 つまり、4Cでダイヤモンドというものを広げながら、一方ではこの《大きさでこの価格》といった重量重視の販売方法をとってきた訳です。

 勿論、条件がすべて整えばかなりの高価なものになりますから、何かを基準に購入条件をそろえなければなりませんので止む得ないのですが、消費者が理解しやすい重さやグレードをセールスポイントにしてきたことがジュエリーにおいては誤解を招いたのだと思います。

 裸石であればその物を肉眼で確認をして求める事が出来ますがジュエリーにセッティングされたものはなかなか一般の人が判断することは難しいと思います。

 例えば1ctと表示があれば1個で1ctのものと複数石で1ctではバリューが違いますが、その点の説明がなく《1ctなのにこのお値段》的な販売方法がとられている事も誤解を招く要因なのでしょう。

 つまり、一つ一つの事実は間違いがないのですが販売方法や説明方法がかなり不足な部分がありダイヤモンドの販売についての憂慮が付きまとうのでしょう。これは販売業者の無知識や経験不足がその根底にはあり、色石に関してはもっとこのような面がぬぐえないのでしょう。

 ただし、いつも言いますがダイヤモンドや他の宝石には何の問題もないのです。扱っている者の問題で、その扱い方によっては多くの人々に喜びや夢を与え、他方では落胆や疑念を抱かせる結果になるのです。

 ダイヤモンドというものは夢や喜びを与える事が本来の価値なので正しく伝えることにより幾らで求めたのかどうかなどは気にする必要がなくなるものです。

 ダイヤモンド明と暗は売る人間が握っており、現代の市場においては残念ながら暗の部分が浮き出ているような気がします。夢と喜びを一緒に販売しておれば決して売ろうともしないだろうし、落胆もしないのです。

 これらは難しい問題ですがダイヤモンドも明と暗はどちらも真実であり、販売する人間がそれを分けているのです。明だけに出来れば将来は販売する事自体が世のため人の為になり、ビジネスの将来も明るいという事になるのではないでしょうか。

 このビジネスに従事している事が誇りであった時代が再びやってくる事を望む毎日です。

2012年9月25日火曜日

心の中に!?

 俳優の柴俊夫さんのお手伝いでチャリティーのまねごとみたいな事をしております。
今度の10月5日にもチャリティーコンサートを日本橋で行います。今回は600人ほどの予定でお集まりいただき演者の方達のパフォーマンスを楽しんでいただいた上でその利益をタイのバーンロムサイというHIVキャリアーの子供たちの支援を始め、恵まれない子供たちの援助をしようという事で毎年行っております。

ご興味のある方は下記URLもしくは当方にご連絡をください。
http://www..shiba-kodomokikin.com/

 今回は松崎しげるさんや、俳優でありケーナ奏者である田中健さん、劇団四季の石丸幹二さん等のボランティア出演による物が予定されております。毎年多くの方達にお声掛けをしてご協力をいただいておりますが、今年もある企業の担当者にお電話でお願いすると

 『景気もそうですし、毎年の事なので一寸と疲れ気味です。』

とのご返事
『大変ではあると思いますが是非ご協力を・・・・。』

等々の会話があり、最後に

『景気が良ければ時間を割くことも、寄付をする事もいとわないんですがね…。』

と本音トーク

『心の渇きなんてそんなんものなんでしょうね・・。』
と・・・。

 お金が心の豊かさにつながるとは思いたくないのですがそれが本音だとは思います。しかし、心の豊かさは必ずしもお金に比例する訳ではないと信じているのですが、逆に心が豊かになればお金はいらないのかというとそうでもない訳です。

 つまり、人々の心の中にあるキャラクターの差が顕著になる要因がお金であるという事かもしれないという事でしょう。

 昨日来店された方が、

『ダイヤモンドを見て感動しない人は信じられない!!』

と言いつつ

『人の心の中にある原点みたいなものですよね。買える買えないは別に素直な気持ちでダイヤモンドを見ていたら絶対きれいとか好きという気持ちになるはずよね…。』

 等々持論を述べておりましたが、勿論ダイヤモンドを見て興味がないという人の心の中の乾燥具合は私も信じられませんが環境に要因によって気持ちを閉ざしている事は確かのように思います。

 私達も何も皆に購入してもらおうとは思っていません。それよりも裸のダイヤモンドを眺めて気持ちを豊かにしてもらいたいと思っている訳で、その上で購入が可能であれば購入して頂くという事なんですけどね。

 それが見る前から拒否反応を感じると、お金の問題ではなくそこに対処する一人ひとりの心の中にあるキャラクターのようなものを感じます。

 ダイヤモンドは買う事だけではなく眺めるという事も心を豊かにしますので、是非お近くの宝石店を眺めてみてください。

 チャリティーとダイアモンドを愛でる気持ちに共通点を感じるのは私だけでしょうか?




2012年9月24日月曜日

ダイヤモンドが確立したもの

  一昨日、久しぶりに会った知人に

 『ダイヤモンドビジネスって、一度誰かに売れるとそれが恒常的に誰かに売れるという事ではないから、難しいビジネスですよね』

 言われた私は『・・・・・?』

 怪訝な顔をしていると

『だって、そんなに何回も買うものではないでしょう?』

 彼は婚約指輪やアニバーサリー等が頭にあるみたいでした。

『そうではなくて、ダイヤモンドというのは色々な側面から見て価値あるものとして見られているので条件が揃うのであれば買いたい人は沢山いると思いますよ。ただその優先順位の問題だけですよ。』

 『でもその価値って何処か公的機関が認めたものなんですか?』

『それは違います。多くの公的機関の認めても価値は状況が変われば価値がなくなります。国債や株などもそうだし、貨幣などもそうです』

 『ダイヤモンドは歴史が決めた価値なので、下手な公的機関が決めた価値より確かなんですよ』

 『でも何故ダイヤモンドは価値があるんですか?』


 ダイヤモンドは何故価値があるのか?

 これを明確に説明する事は難しいと思いますが、それは何もダイヤモンドに限った事ではありません。例えば歴史的な絵画は沢山ありますが何故そこに優劣がついたり、価値が評価されたりするのか?

 多くの価値は人類にとって何らかの役に立つ事が前提で価値が発生するのですが、絵画は人類にどのような価値を与えるのでしょうか?勿論、彫刻などもその類いです。

 勿論、その中には古代の壁画や彫刻のように歴史的価値(これは学術的な意味として)がある事は理解できますが単純にそれらは時間軸を無関係とすれば芸術的価値だけと言う事になります。

 芸術的価値とは一部のそれを評価する人間にとって価値があるという事で万人にとってではなりません。それでは万人共通の価値とは何なのでしょうか? という事になります。

 つまり、換金性が伴うかどうかという事が精神的な事を別にすれば価値という事になるのでしょう。一部の人間に対してであれ換金できる事が価値という事であればほとんどのものに価値があるという事になります。

 さて、ダイヤモンドに話を戻しますが金は100%とのに近い率で価値を測る事はできますが、絵画などの価値は一部の人にしか解りません。それではダイヤモンドはどうなのかというと限りなく金に近い価値という事になると思います。人の査定によって違うといっても一定の基準を前提にすればその価値を測る事は出来ます。

 そういった意味で言えばここ数十年でダイヤモンドの価値は確立されたといってよいでしょう。サザビーやクリスティーのようなオークションから一般的なオークションそして買取業者の類まで入れると換金の形は出来たといってよいでしょう。

 ただし、どの様な品質や大きさがより効率よく価値が測れるかという事やより公平に価値判断がされるかという事になると其々が判断した場所に持っていく必要があります。

 『高価』『非必需品』『小さい』物が何故に数百年もの間、価値あるものとして存在していたのかそちらの方が信じられないでしょう。

 権力や富の象徴としての役割は延々と続いているとは思いますが、経済的価値という物もダイヤモンドによって確立されたものが多くあると考えています。

 その他の物で象徴的な役割を現代に残すものはほとんどありません。必需品であっても原形を残したり形を残したもの文明の進化とともに残っているものはほとんどありません。

 反面、ダイヤモンドは時代を超えて必要なものとして残っており、価値があるものとして判断されています。後はそれを扱う人間のレベルがはっきりするのを待つでけなのではないでしょうか。

2012年9月22日土曜日

ダイヤモンドの意味!?

 昨日、お取り引き先との会話で

『贅沢品に回すお金はないという人が圧倒的ですね。』

との会話でといった内容であった一方で他の取引先は

『高額品は売れますね。むしろ安価なものは売れないし、いずれにしても格差社会は思っている以上に差が激しいという事ですね。』

といった会話ですが、勿論ダイヤモンドに対する小売店さんの声です。

 多くの業界の人たちが感じている声だと思います。今まで贅沢品の最たるものとして売ってきた結果であり、それは当り前だと思っていたと思います。

 生きていく上で、食べて、飲んで、寝てといった最小限の当り前のことだけで現代人は生きていけるのかといえばそうではないとおもいます。

 食べるものには味があり、その中に嗜好があり、飲んで喉を潤すだけではなくやはり炭酸が入ったり味があったり、寝るにも寝心地を追及したりと人は『丁度の良さを』を追及していく事も生きていく上では必要な事だと解っています。

 ダイヤモンドは贅沢品と見られるようになって久しい。でも、その前にそう美しさや神秘性が人の感性に何かを訴えたからここまで存在をしている。

 香辛料はその昔、金より高く、勿論ダイヤモンドより高いものとして流通していたのは皆が知っている事だと思います。勿論この時点での香辛料が贅沢品である事は理解が出来ます。なぜなら、香辛料は人によって好き好きもあるし他の調味料等も多々あります。

 贅沢品となんだろうか?

 生きていく上で必要のない物と定義が一応に出来るだろうか?

 これも難しい問題です。人にとって贅沢なものが別の人には必要なものだったりしますし、場所によってもそれは違うでしょうし、時によっても違います。

 それでは今の時代にダイヤモンドは贅沢品なのだろうか?

現代のような人々の絆が薄弱で親子さえ殺しあうような時代は戦国時代を除いてはなかったと思いますが、絆をある部分で証してくれるダイヤモンドと定義付けをした場合にこじつけといわれるかもしれないけれどもあえて言いたいと思います。

 過去の歴史においても大なり小なりダイヤモンドは絆なり縁なりを表現してきたものである事を・・。

 婚約指輪、おばあちゃんの形見、両親から成人式のプレゼント等あらゆる場面でダイヤモンドは絆や縁を演出してきました。ただ業界の売り方が知識のなさからマニュアルに頼り、売り方が偏ったために贅沢品の位置に追いやられたのだと考えています。

 人が生きていく為には空気があって食物があって水分が取れるだけでは生きていけますか?
だったら、レジャーも入らないゲームも入らない(本当に要らないと思っていますが)レストランも携帯電話も何もいらないのです。何もかもいらないのです。

 でも現代の経済は一見、無駄に見える贅沢品のような物で経済も回り、世の中も回っているのです。それらの中でダイヤモンドは贅沢品ですか?

そうではないとあえて言いたいのです。

 私達ダイヤモンドビジネスに携わる人間は一次的には『夢』と『希望』と愛しむ心を提供しています。そこにはダイヤモンドの尊厳を説く心とその役割を担うことが大事なのだと考えます。

 大げさに宗教がかった事を云いましたが本来はそこに起源があるのだという事を忘れないでもらいたいのです。現代は価格や経済が絡み合っているし、それも事実です。

 そして、それも否定するつもりもありません。ただ、そちらの方だけを主にしてほしくないという事ともう一度ダイヤモンドの意味を考えてみると冒頭の悩みは解決が出来るかもしれないと思っています。

 



2012年9月21日金曜日

ダイヤモンドの新鉱山!?

 今年の1月には中国でダイヤモンドの新しい鉱脈が発見されたというニュースが流れ、そこには30年分のダイヤモンドが眠っているということでした。

 また、つい最近というか先週ロシアで1970年代に発見されていた鉱脈が公表されています。これは数十万年前に隕石が落ちたクレーター後が鉱脈に衝突して浮き上がってきたものとされており、こちらは3000年分のダイヤモンドが埋蔵されているという事です。

 すワッ!! ダイヤモンドの大暴落か!?

世界はでは大きな話題になっていますが、如何せん中国とロシアの発表です。専門家筋では宝石質のダイヤモンドがどれくらいあるか、どれくらいが発掘できるのか、結晶の大きさはどれくらいあるのか等々、疑問の声も投げかけられています。

 なぜなら、私も記憶していますが1970年代には中国でダイヤモンドの鉱脈が発見され採掘がはじまったとか、研磨工場がつくられている・・・。また、その為の公司が作られ販売を始めたということで実際に私も中国のダイヤモンドを販売する公司にアプローチを受け実際にダイヤモンドも見てみました。

 最初、パーセル(ダイヤモンドを包んでい紙)を開けてみると確かにダイヤモンドは入っており、とてつもないメランジ(大小形バラバラ)なロットだなぁ~と思いながら見ているとその中にルビーや翡翠が混じっている訳です。

 すぐに、他国とのバーター品だな・・と推察がつき(当時のビルマと接しておりそこで頻繁にバーターが行われていた)問い詰めるとあっさり認めました。勿論買えるような品物ではなかったので購入する事はありませんでした。

 このように中国やロシアは公表されるものは全くのウソではないにしても相当に盛って発表される事が多く、必ずしもあてにはできない訳です。

 しかし、このニュースが日本の業界ではほとんど話題にならなかった事もやはり今の日本の市場を物が経っているのかもしれないなぁ~と思っている次第です。

 大丈夫ですダイヤモンドは沢山発見されてもサイズの大きなダイヤモンドに関しては確率的にそんな多く試掘される訳もなく、もしある程度の量が出てくるとしたらかえって公の相場として成り立ちやすくなってきます。

 現代においては需要に対して大粒物は圧倒的に少ないのですから・・。



 

2012年9月17日月曜日

丁度良い!?

 ブログを書くようになって、自分自身のダイヤモンドや物の見方について気ままに綴っていると、自身の考え方が頑固で一般的ではないかもしれないと思っています。勿論、後悔も反省もないという事が前提ではありますが・・・。

時々ブログを読んでいる方から連絡があり、ダイヤモンドの選び方の相談があります。良くあるのはグレードで選ぶのがよいのか、大きさで選ぶのが良いのかという相談ですが、これはケースバイケースです。

というのは婚約指輪として選ぶとしても、どういう事を前提にするかという事で選び方が違います。指輪を買う時の瞬間を思い出にするのか、ブランドというステータス的なものを前提とするのか、もしくは生涯の記念として買うのかという事です。つまり、婚約指輪というのは必ずしもダイヤモンドを前提とする必要がない訳で、たまたま、婚約指輪の素材にダイヤモンドが使われている物もあるという訳です。

ただダイヤモンドの指輪が欲しいという事であればブランドとかグレードではなく大きさを意識したものが良いと考えています。というのは以前にも書きましたが0,3カラットや0.5カラットくらいのものであれば子供たちの父兄参観に行くようになると小さく感じて着けなくなる事が往々にしてあるからです。

1カラットを超えていれば60になっても70歳になっても身につけます。婚約を象徴するような事を前提にするのなら、ず~っと着ける事ができなければ意味がないし時本来の役をなしていないと思います。

でも、1カラットでは高価だしと考えるのも解ります。普段からダイヤモンドの買い方として美しい事を前提に大きいものを買うに越したことがないと書いております。まさにその通りで、予算もあるでしょうし、自分にとっての大きさの基準も解らないと思いますが自信を持って選ぶ事です。

店員さんの勧めるグレードとかデザインは無視をしてダイヤモンドそのものを見て、自分が見て綺麗だと思ったらその上で予算に対してどうかという事を考えます。グレードを店員の勧めるように前提としたら満足をするものが買えません。

何事にもちょうど良い、予算、大きさ、美しさがあります。多少色があっても美しいダイヤモンドはいくらでもあります。多少の内胞物があっても肉眼でそんなに簡単に見えるものではなりません。むしろそれらの事があっても美しく印象の良いダイヤモンドはいくらでもあります。

勿論、お金を出せばいくらでも良いのは買えますが、それは将来の財産や投機に充てるのであれば意味はあります(絶対的ではありませんが)。しかし、多くの場合は思い出や将来子供たち引き継いでいく意味を大きく考えるのであればその時にできる自分達にとって一番丁度良い物を選ぶべきです。

世間の真似をしてブランド物を手にしてみても、それは自分自身を表わすものとしてはあまりにも寂し過ぎます。だれもが持っていないようなもので自信を表現できるようなものを選ぶことこそ丁度良いのだと考えます。

話が解りにくくなったと思いますので基準として、肉眼で美しく見えて(個人差はありますが)それなりの大きさの基準となると1カラットで50万円、2カラットで100万円位を基準に考えると良いのかなと思います。勿論その価格の中には色は白いが内胞物はあるとか、内胞物はないけど若干の色はあるというものになりますが選べば自分の基準に丁度良いものが必ずあります。

物によっては30万円くらいでも1カラットで綺麗なものはあります。ただし、妥協をした美しさでは必ず後悔をします。ジュエリーとして考えずに自分に精神的に合ったダイヤモンドとして選んでください。

ダイヤモンドの裸石を見てじっくり選べば、必ずあります。
『丁度良い』のが・・。

前提を何にするのかが大事なのです。
ダイヤモンドは宝石ではなく、一人ひとりの『宝物』になってこそダイヤモンドなのです。


2012年9月7日金曜日

タイムカプセルダイヤモンド!?

 毎度のことではありますが時が経つ事の速さと過去への後悔だったり反省が100メートル以上行進をしています。

現在、我が家に二人のホームステイがおり、アメリカの女子大生です。二人はスタンフォード大に通い医学の道を目指しているという才女たちです。一人は生まれた時から知っている友人の娘でありもう一人はその友人です。

その友人の娘を見ていて、彼女が生まれた時からその都度会っていた時の事をそれこそ走馬灯のように甦る訳です。そして、あの時こうしてあげられれば良かったなぁ・・とか。あの時の喜びを彼女に伝えるにはどの様にした良いだろうかなどと、彼女の両親の事などを考えながら思う訳です。

たまたま見ていた雑誌に、震災以後のある小学校から出てきたタイムカプセルの事が書かれていました。もう卒業をして十数年は経つだろうとする卒業生たちが集まって掘り出したものです。そこには震災前ののどかで穏やかな小学生達が未来の自分達へのメッセージがしたためられていた訳です。

震災があり、当時の彼らの中には今ほどの荒れ果てた自分達の故郷を想像することは誰も出来なかったでしょう。でも、歴史というのは人類だけが綴っている訳ではなく、自然もまた歴史の主役である事をたびたび主張してくるものである事をシバシバ私達は忘れがちです。

何かを刻み、何かを残す事が自らの描いた人生が当り前におくる事が出来たのかどうか未来において検証が出来る手段であり、また描いた通りのものにならなかったかどうかを確認する方法でもある。

友人の娘を見ていて、彼らの人生に何らかの関わりをもった事を誇りに思うと同時にもっと沢山の証しを残していたかったと多少残念に思うものでした。

以前から、ダイヤモンドは時を超えるメッセンジャーであるといったきましたが、今回改めて半永久的な耐久性を持つダイヤモンドに何かを担ってもらえないだろうかとダイヤモンドにメッセージを刻むことを推奨してみようかと考えています。

生まれたばかりの娘が将来成人をした時やお嫁に行く時に彼女が生まれたその時しか持てない感情をメッセージという形でダイヤモンド託すというのはどうだろう?

孫が生まれた時のメッセージを将来の孫達に向けるのはどうだろう?

自分達がある日突然わき出た訳ではなく、そこには歴史がある事を感じるでしょうし、たとえそこに自然という演者が現れても変わる事がない歴史がそこに有る事を将来の子孫たちに伝えるというのはどうだろう?

タイムカプセルのようなダイヤモンドが役割を果たしていってくれる事を願ってやみません。

因みにサンプルです。