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2012年4月30日月曜日

変わらぬ事・・・ダイヤモンド。

 小松左京の『日本沈没!!』はあまりにも有名な小説ですが、実はこの裏には色々な作者の想いがあったそうです。

 実は東北沖地震は既に何人かの学者や知識人が予想をしていた事も知られていますが、小松左京もその一人であったという事です。

 最近の話ですが、実は彼の作品の取材の中でその事実に出会い、その事を行政や政治家にも警告をしていたという事ですが、その事の多くの反応がその事についてことさら騒ぐべきではないというより、気にしつつも何もしないという結論に達したという事です。

 後日、同じく取材の中で三つの選択を多くの人々に示し、答えを選択してもらったそうです。それは1.その日のために準備をする。2.海外への移住する。3.何もしない。という三択です。

 答えの80%以上の人が3番の何にもしないということでした。これは日本人の特性なのかもしれない。何か大きな変化が起きる事や自分にリスクのありそうな事はとりあえずしない。それは自らのリスクがある程度起きる可能性があっても『何もしない』事を選択するのでしょう。

 とりあえず自分には何も起きないだろうから自分から何かはしない。昨年の地震以来多くの情報がメディアを通して流れていますが、その為に何かをしている人は、少なくても私の周りにはいない。海外へ移住準備している人も大きな災害のための準備をしている人もあまり知りません。

 日本ように島国で何かの変化に乏しい国民は自らや周りが変わらない事を望み、出来れば現状のままで生涯をすごす事を望みます。

 この事は決して悪い意味だけではなく、日本の文化にとっては良い事もこの性質の中からは生まれていると思います。つまり、伝統や暖簾といったものの原点にはこのような変わらない価値観を大事にするといった事でもある訳です。

 意味は多少違ってくるのかもしれませんが変わる事の価値と変わらない事の価値は双方とも大事な事ですから、アメリカのような移民の国は変わる為にかの地に集まり変わっていく事に価値を見出しアップルの様な会社が生まれてきたのだと思います。

 変わらない価値を重要と考えても人間が形成する価値には変化が付きものですが、それを守ろうとする行為そのものにも価値があるのだとも言えます。

 自然や人間の価値観の中で変わらぬ価値があるダイヤモンドは変わらぬ事の価値の原点ともいえるもので、人間の持つその感性もまたそういったものに育まれてきたのかも知れない。

 地震や災害というものは自然や歴史の中で必ず伴うものである。人間がその事には向かう準備をしても大したようもなさないかもしれません。それよりも現状に生きその証を将来に残す事が大事なのかもしれません。災害はいつどこで会うやもしれません『備えあれば憂いなし』という言葉もありますがそれは想定の範囲の物の準備でしかありません。

 あえて言いますと『変わらない事』も『変わる事』と同じくらい大事ですよ。ただしその選択は人それぞれですよね。つまり受け入れる事も準備をする事と同じくらいに大事です。

 意識もそんなには簡単に変わらないという事です。

2012年4月25日水曜日

牛肉とダイヤモンド!?

 牛肉にはランク分けというものがあり、ABCのランクをさらに5、4,3,2,1といった等級に分かれているそうですが、人其々のの好みとは別なのかなという気もします。

 ある日、アメリカ人の友人と和牛のステーキを食べ日行った時にその彼が

『食べてから言うのも変だけど、マシュマロを食べているみたいだったね』
と食後に述べておりました。

 彼が口にしていたのはAの5等級という最高級品だったのですが、柔らかすぎて肉を食べている感じがしなかったということでした。

 確かに私自身も霜降りはあまり好きではなく、しっかりした赤身の方が好きかも知れません。特にアメリカではローストビーフやプライムリブといった赤身の部位が好まれるという事もありますので彼の感想もそのとおりかもしれません。

 満足感とういうものはどれくらいの量をどういったものを食べたからという事ではなく、食べてみて気に入った物が自分にとって好みの物という事になるのかなという気もします。

 確かに先に最高級と聞いていてそれを食べたという事で満足をする方もいるかもしれませんが実際には其々の好みがって食べてみて良かったという事で、後でない様を聞いてみたらどういう内容の物だったといことで良いのではと思います。

 よく芸能人の格付けで目隠し状態で良し悪しを判定する番組がありますが、あれを見ていても思いますよね。実際に好みとブランドは関係がないということが・・・。

 実はダイヤモンドのグレードが正にその物で、4Cという物も結果論なのです。価格の違いを説明しているだけ記号という訳で(牛肉の等級分けと一緒)その人によって美しいか好みかは別問題だという事です。

 食べてみて、飲んでみて、付けてみて自分に合う物を探し結果的に確認をしたらこのグレードだったという事で、DカラーだからとかVVSだからエクセレントだからという事ではなく自分に合ったものをまず探してみて試すことから始める事が良いのです。

 牛肉だけではなく、ワインや果物なども最近は等級分けされていますがB級品でもおいしいものは沢山あり、その違いは生産者の手間ヒマの等級であり、消費者の志向とは必ずしも一致してはいないということです。

 ダイアモンドに関しては特に事前の物ですから人間の力はそれほどまでには反映されてはいませんので、まず自身の好みで選び後でグレードで説明をしたもらう事が大事です。もしそこの販売員がグレードの事やその意味を把握していれば、ちゃんと説明をしてくれると思います。

 勿論グレードやブランドで選ぶのもその人それぞれの志向性ですから、それはそれだと思います。ただ、内容で選ぶ事を私は勧めたいですね。

2012年4月20日金曜日

ダイヤモンドとフェラーリ

先日友人がフェラーリを購入しましたが家の駐車場に入らず、新築をする羽目になった事を話しておりました。まったくもって笑える話ですが、本人はいたってまじめで、小さなころからの夢であったフェラーリのオーナーを実現した訳です。

実はダイアヤモンドに関してはよくこの種の話と比較して話される事が多いと思います。ダイヤモンドに否定的な多くの男性は必ず

『車とか家には実用性があるけど、ダイヤモンドのような何の役にも立たない物を何故欲しがるのかが解らない。』

といった会話をよく耳にしますが、これは身勝手な言い分で、車に興味のない人にはファラーリを買って家まで改築する人の神経は理解できないのです。

車を持つ事は業務を除いて交通手段の発達した現代では贅沢でもあります。ましてや実用範囲を超えた高級車は何をかを言わんやです。エコカーといったって、もしエコを気にするなら乗らなければ良いということにもなります。

つまり、ダイヤモンドの関しても同じ事で心の豊かさや満足感を与えてくれたり、励みだったり、プライドなどを満足させてくれるという事に関しては同じレベルの事なのです。

但し、一般的なダイヤモンドで言うと車などほど高価ではないという事です。なぜなら、一般的に高級車レベルの満足感を得るだけであれば百万から五百万円の間であるでしょうし、保有期間にお金が掛かる事もありません。

ましてや後日販売することも可能である事を考えるとどちらが実用的化という事だと思います。一部の例外を除けば答えは明白です。

ダイヤモンドは引き継ぐといった別の名目もあります。つまり系図のような役割もしてくれる訳です。手に入れた方の思い出が何十年、何百年とダイヤモンドも通じて語り継がれていく訳ですし、その事が本当は最も大事な事なのではないでしょうか。

勿論、何を大事するのかは人それぞれですからいお互いの趣向は認め合う事は大事なことだと思います。また、それを批判することもどうかと思いますからね。

お互いを認め合う事は人間社会を構成する上では原点といっても良い事ですから・・。
あえて言うなら時代を超えてきたものはダイヤモンドだけです。

2012年4月17日火曜日

心の豊かさとダイヤモンド。

原発再稼働問題に揺れている今日この頃ですが、確かに今の生活をしていたら電力が足りなくなることも理解できます。しかし、実際に今の生活を本当に維持する必要があるのだろうか。

 今の豊かさを何か勘違いしている為に余分な電力を使っているような気がしませんか?

 携帯電話が普及をし、ゲームがはびこり、スマートフォンが進化しさらに皆で電力を消費するような行動に出ていて、電力が足りないという事に違和感を感じます。

 本来の心や物理的豊かさとは何だろうか・・・と考えた時に食べる事に困らない物理的豊かさと穏やかにいる事の出来る心の豊かさ。つまりは平和に過ごす事に現代の行き過ぎた環境が本当に必要なのでしょうか。

 美しい景色を見て和み、草花を愛でて得る心の豊かさはお金がかかる訳ではないでしょう。勿論個々の感性によってその種類は違う事も理解していますが、行き過ぎた娯楽やヒマつぶしが本当の豊かさかというと疑問だしそのような事に電力を使い、工場に節電をさせる事が合理的ではないという事を理解すべきでしょう。

 ダイヤモンドは現在では高価である事ばかりが特筆されますが、実際にはどうでしょうか。車やゴルフ会員権に比べて高価なのでしょうか勿論車であれば乗る事が出来る、会員権であればプレーが出来るといった事が言われるかもしれません。しかし、いずれにしても心のリフレッシュや別の感性がそこにはある事も同じです。

 ダイヤモンドを愛でる事がスピリチュアル効果があったり、プライドであったり、もっと言えば資産的ポジションにあったりする事を考えれば実質的心の豊かさを最も兼ね備えている物と言えるのではないでしょうか。

2012年4月16日月曜日

ダイヤモンドの美観!?

最近、ダイヤモンドのカットについてエクセレントとかトリプルエクセレントとかハート&キューピット(海外ではハート&アローと呼ばれる)なる物が基準になっているような雰囲気があります。

 美しさや可愛さを感じる事は人それぞれによって違う事は当然ですがある種の納得した条件を提示され、自身に基準がなくて、世間の人がそう言っているのならばそうだろうと考えるのが日本人です。
 
 ダイヤモンドにおいてのエクセレントカットというものは物理的なものを指しており、対称性が優れてますよ、研磨が細やかですよ、形が物理的に理想的(白い色の物関してですが)ですよという事です。

 美観に対しては個人差がある事は先にも述べましたが、ダイヤモンドに関しても同じ事が言える訳です。販売側が言うエクセレントは必ずしも人々に好ましい訳ではありません。

 実際に米国宝石学会(GIA)もそこには言及しておりません。3千万件を超えるモニタリングをした結果でも人の好みや同じカットでも大きさによって試験者の捉え方は一致をしていません。特に色がついたものに関しては顕著である訳です。

 確かに綺麗に見える条件の一つであるエクセレントは煌きが強く感じることも事実ですが、一方でダイヤモンドには白色光の魅力もあります。煌きは方面で光る反射ですが白色光はダイヤモンドの内側jからの反射が強く感じられるものです。このバランスが人々には美しく感じるのです。

 小さなサイズ(0.2~05ct)のダイヤモンドの多くは婚約指輪などに使われる事が多いので文字で表される内容も大事でしょうし、キラキラはして見えますから良いのかもしれませんが、実際には長く使用するものですから自分の目で綺麗であれば予算の中で一番大きなサイズの物を選ぶ事をお勧めします。

 美観に対しての表現は色々ありますが、美しいと言う言葉と綺麗という言葉のニュアンスは微妙に違います。これは外国語であればもっとはっきり意味として違います。ビューティフルとクリーン
とはやはり違いがあり、日本人が英語を話す時にはちゃんと分けて話すことも覚えています。

 ダイヤモンドはこの二つのバランスがきちっと取れている時に美しさを感じます。つまり表現があたっているかどうか解りませんが、花火の美しさと景色の美しさの二つの違う意味の美しさをダイヤモンドは兼ね備えているのであり、キラキラしているだけの綺麗さをダイヤモンドに求める事はもったいない事なのです。

2012年4月13日金曜日

ファンシーカラーダイヤモンドCR

 前回輸入分のファンシーカラーもおかげさまでほぼ完売状態になり、改めてカラーダイヤモンド人気を実感して次第ですが、絶対的な市場がまだ小さいという事も言えます。

 
 今週、展示会に参加をさせて頂いた際にとある紳士にイエロッシュ・グリーンの1ct石を購入して頂きましたが昨日お電話を頂き、
 『実はご相談があります。』
 と突然の切り出し、

『何でしょうか突然に・・・。』
と当方も困惑気味に応対しました。

『先日頂いたカラーダイヤモンドなのですが、私は本当に価値を解っているのでしょうか?』

『というのはどういう事ですか?』

『勿論気に入っているのですがこんな高価な買い物をして良いのかな・・と思ったんです』

 このようなご相談は良くあることですがダイヤモンドが必需品ではない贅沢品であるという事が前提に皆さんはお悩みになる事は多くあります。

 総論を語ると長くなりますのでファンシーカラーに限ってお話しをさせて頂くと、通常のダイヤモンドつまり、白いものに比べると非常にレアなものですが希少性やある種の感性をお持ちの方にはたまらない魅力のあるもので一部のファンシーカラーを除けば高価であることも間違いがありません。

 車で例えるのであれば、移動や物を運ぶ事が出来ればそれで良いはずの物が一般車両からスーパーカーまで車として存在します。現在のように交通機関が発達して時代であれば車そのものが贅沢品という立場にあります。

 フェラリーやランボルギーニといった物もあればプリウスのようなECOカーまで多種多様です。実用的ではない車やECOを意識するのであれば乗らない事が一番良いのですがそれでも人はそれを望みます。何故でしょうか?

 人々が生きていく上でやりがいやモチベーションが必要である事は勿論ですが、それは人によって対象物も違う訳ですよね。つまり、実用的ではないように見えるそれらの対象物は実は人が生きていく上で最も必要な実用品な訳で、ただそれが人それぞれだという事だと思います。

 その上で個々のモチベーションの上がる対象物は過去の経験や環境によって違いが出、対処物が変わってくるのだと思います。

 同じような対象物を持った人々が多くいて、その対象物に希少性を含めた特別感があればそれは高価なものになっていくという事だと思います。それがダイヤモンドであったり車であったりする訳ですね。そして、それらの対象物は資金の用意で毛では手に入らず、あらゆる条件がそろわなければその手には入らない物であり、だからこそそこには価値があるのだと思います。

 ダイヤモンドのように多くの人々に理解をされながら出れ氏もが手に入れる事が出来ないものは
手に入れる事の出来た幸運を楽しむべきなのでしょう。

 同じ会場にいらしていたご婦人は1ctのマーキース型のダイアヤモンドをお求めになりましたが、
その方の一言が印象的でした
『大きいダイヤモンドをやっと手に入れる事が出来ました。今、持っているものは祖母と母が買ったものであって自分が買ったものではないので、祖母と母がそうしてくれたように私も手に入れて子供に伝えたいと思っていましたの・・。一生懸命働いてやっと手に入れるところまで来ました。そんな時にこんな良いダイヤモンドに巡り合うとは大変にありがたいです。』

 これらの話を電話口でお話をさせて頂いていると突然、
『社長、ありがとうございました。今理解が出来ました。実は私は恵まれていてその事が理解できていなかったようです。何故か元気が出て来ました。』
といったかと思うとあっという間に電話の会話が終わりを告げました。

 良いアドバイスになったかどうか解りませんが、今回手に入れたファンシーカラーの物も特に目的としていた買付でもなく、偶然手に入れたものでした。少しでも多くの人に知ってもらおうと価格に関して手にして頂きやすい価格にさせてもらったつもりでしたが多くの手に入れた方からのお声を聞くと私自身もモチベーションが上がってもっと良い物をご紹介しようと気合が入ります。

2012年4月6日金曜日

理想のダイヤモンド。

よくダイヤモンドの価格はあってないようなものだとか、高いか安いか解らないなどの言葉をよく耳にします。
 
 結論から言いますと鉱山から鉱山から掘り出し、研磨をし、流通をを経てくるのですから有ってないようなものだという事はありません。つまり、石油や石炭ほどの確率で掘れるものではないので価格的にもそれらよりお高くもなります。

 問題は価格が妥当かどうかという事になりますが、基準はどこにあるのかという事になります。つまり、何を基準に提示されている価格を測るのかという事になりますが、それは買い求める方々、其々の理想が基準という事になります。

 ダイヤモンドは何時も述べるように記念の為、ファッションの為、そして財産保全のためといった用途がある訳ですが、多くの方は婚約指輪等の記念やファッションの為にお求めになります。

 どのダイヤモンドもハード的には天然の差異以外を比べるとおおよそ同じようなものですがそこに関わるソフトによってその価格差が生まれて来ます。ブランドものを買うのか、インターネットで買うのか、はたまた銀座の有名店で求めるのかによってその違いが生まれます。

 どの様な形態からダイヤモンドを求めるのかは其々の心の中にあるものだという事になります。
高いけれども安心と信用を求めるのか、自らリサーチして自分に合うものを求めるのか、とにかく価格の安い物を探すのか。それぞれですが、何を大事にしてダイヤモンドを手に入れるのかという事になるのです。

 ダイヤモンドはハードとしての理想形はない事が既に米国宝石学会の長年のモニタリングにより結論が出ております。つまり同じカットでも見る人によって美観が違ったり、大きさによってもその違いがある事を証明しております。

 よくカットの良いダイヤモンドという表現を販売店はしますが、それはあくまでも目安であって思いこまない方が良いのです。あくまでも自分の目によってどう見えるかは大事なのです。

 つまり、理想のダイヤモンドというものは其々の中に基準があり、そこに予算や考え方によって目安を作りダイヤモンドを選ぶ事が良いと思います。

 ひとつアドバイスをするのであれば沢山のダイヤモンドを、価格やグレードを気にせずに見て歩く事です。必ず自分が綺麗だと思うようなダイヤモンドに巡り合います。一軒、二軒のお店で選ぶ範囲のダイヤモンドを見つける事は出来ないし、その時間も実はダイヤモンドの価値に含まれているのです。

 理想のダイヤモンドは皆さんの心の中にあるのですから自分を信じて選んで見てください。
選び方によって自身の性格も解り、もし、婚約指輪であれば相手の深層的な性格も解るはずです。

 つまり、見栄っ張りなのか、情緒の欠如なのか豊かなのか、自身に自信がないのかあるのか、人を信じやすいのかどうか等が測れます。ただし、ダイヤモンドに魅了される人々の多くは感性が豊かな心細やかな人が多いと小生の私見ではありますが経験の中から感じます。

2012年4月5日木曜日

ダイヤモンドと桜!?

いよいよ春の爆弾低気圧も去り桜を愛でる季節になってきました。

 通勤途中の川沿いにも沢山の桜が芽吹き始めています。桜は日本人にとって素晴らしい心の豊かさを与えてくれるものであり、日本人の気質の源となるような部分が多くあります。

 ワシントンの桜は有名で、勿論日本からの贈り物である事も多くの人が理解をしております。最近のCNNでそのワシントンの桜の満開の様子を映し出しておりました。それを見ていてちょっと驚いた場面がありました。

 『ワシントンの桜は満開の時も美しいけど花びらが散る時も美しいわ!?』
と地元の女性であろう人がインタビューに答えておりました。

 私の驚きとは以前のアメリカ人との反応の違いでした。というのは以前の欧米人全体に言える事ですが花びらの満開を美しく愛でる事は勿論ですが、桜の散り際を美しいと表現することは皆無であったように思います。散った花をガッカリし、その事に対して舌うちさえしていたような気がします。

 日本人の気質には桜の散り際の美しさに精神的な潔さを感じたり、美学を求めたりするところがあり、花弁が散る際の美しさの理解こそが日本人気質そのものだと感じて来ました。

 百年という歳月がワシントンの住人達の気質を練り変えたのかもしれません。人間の周りにある普遍的な自然環境がそこの人々の気質を形成する事とを改めて感じた次第です。

 ダイヤモンドの中にサクラカットというのがあります、以前アントワープで開発され当時の景気の良かった日本市場用に用意されたもので、フェイスアップにしてテーブル面からルーペで覘くとパビリオンの影がサクラ型に見えるというものです。

 ダイヤモンドがもう少し日本人の周りに早くから存在すればもっとダイヤモンドを理解してくれるのであろうかと考える事もあり、日本人にとってのサクラはダイヤモンドにも匹敵するのかもしれないと思う事は大げさなのでしょうか?

 理屈ではなく感性で理解をする物があっての心の豊かさである事を考えると双方に共通したものを感じます。心の豊かさに関しては次回に・・・。

2012年4月2日月曜日

ダイヤモンドはソフト、ハード?

ダイヤモンドはハードなのかソフトなのかといった事に頭をひねる事が多くなってきたような気がします。それは何時も述べている様に現代の社会においてはファッション、アニバーサリー、資産といった面があまりにも出てきているせいだと思います。

 野菜や魚貝を含めて調理はしても料理が必要ないものに何故調味料や多種類の組合せがあるのだろうか?
  
 最近、話題になっている若返りの方法を書いたお医者さんの本が評判を呼んである様ですが、
中身にはなるべく食材をいじらずに食する事が若さを保つ要因でもあり、動物が自然に生きていく上で調理や調味料を必要しないでしょう。・・・とちょっと乱暴に解説するとそのような事が書かれています。

 つまり、最低限の必需品があれば人間は生きて、また健康的に生活を送る事が出来、それが人間にとっては理想的なんですよ。・・・・といった事が言いたいのだと思いますが、エデンの園にヘビ
が現れて以来人間は必要不可欠なものだけでは生活が出来ない事になっています。

 確かに同調できる事も多々あります。現代においてヘビが想像もしなかったような欲のレベルではないような過激な物もあり、このままで良いのかという事もあります。

 多くの人々が交通機関や公共の場所でゲームをやったり、過激な風俗が当り前のように蔓延していますが、本当に良いのかなぁ・・と思わざる得を得ない事が沢山あります。それは本当に生きていく上で必要な事?  と思ったり、それは無い方が良いのではと思った事があったり、起こったりしており、それが現代の社会の経済の脚光を浴びている事をいぶかしくも思ってりしています。

 料理、生活、ファッション、車等、どれをとっても快適に過ごすためのソフトは必要であったり、多少超えても人間社会において必要悪であったりする部分はそれこそ必要なことであると思います。

 それは聖書の中にもエデンの園にヘビが登場したように道徳的に悪なことであっても人間生活において循環という意味も含めて必要だという事でしょう。

 永くなりましたが、何を言いたいかというと現代にはびこっているソフトは必ずしも人間の文化に必要なソフトだとは思わない事で経済が回り本来必要な事で経済が回っていないという事を感じ、ダイヤモンドは必要なソフトなのかはたまた不必要なものなのかという事を考えた訳です。

ダイヤモンドは必要なハードであるとともに人間社会においてこれだけ古くから徴用されているという事は歴史の証明している人間にとって必要なソフトであるという事を改めて感じ、無駄に見える事が実は生きていく上でも必要な事ある事を前提にして、もっと原理主義的にソフトを精査する時代なのかもしれないと前述の著書を読んだ時にふと感じました。