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2013年11月22日金曜日

凡!!

 常日頃というより、ある程度の人生を送ってきて日々感じる事は『平凡ほど非凡な事はない』
という事です。

 確かに才能を発揮し、異才を放つ事は素晴らしいと思うけれど、多くの場合他の事に関しては一般的ではない人が多いと感じてしまいます。しかし、たまたまそれが時代や条件に受け入れられた人は才能を持った人となりますが、受け入れられなかった場合は只の変わった人という扱いになるだけです。

 私が考えるのは、平凡に何事もなく人生を送ってきた人はほんの一握りで、サラリーマンにしても何処の総務部にでもいそうなごく一般的な人というのは意外と少ないと感じます。一介の経理マンと思っていた人が多額な使い込みをしていたりと、意外と平凡そうな人はいそうでいないというのが実感です。

 つまり、多くの人は何らか変わっていて当たり前だし、何らかの環境の変化を受けて人生を変えざるを得なかった経験を持っていると思います。故に、何の変哲もなく人生を送りきるお父さん達やお母さん達は色々な事に瀕してもそのポジションを変えずにきたという事になりますので、これはもう如何に非凡なことかと考える訳です。

 地球であれ歴史であれ、進化や変化というのはつきものです。またそれがあって歴史が創られ。環境も変化や進化をしてきました。

 ある種それは普通の事なのです。

 そこで、変わらない事の価値という物を、見方を変えれば極希少の価値という事になるのではないでしょうか。ダイヤモンドに関しては変わらない事の価値が前提となっていますが、それは皆が理解をしているようで実は理解をしていないような気がします。多くの人はその魅力的な外見に価値を見出しているのだと思います。

 何か人と変わったり、ものすごい事を考えついたりすることだけに注目しがちですが、本来は長い目で見るとそれなりの才能人は定期的に表れ、何らかの形で歴史を変えていくのでしょうけれど、その結果の弊害はその後に必ずくることは歴史が物語っています。勿論その問題に対しても人類はクリアをするケースもある訳ですが・・・。

 多くの進化や変化を認めたくないという事ではなくて、変わらなく普通である事の大事さにも眼を向けても良いのではないでしょうか。色々な意味で。

 こじつけのようですが、ダイヤモンドが不変であるという事の価値が感覚的には皆さんも解っている訳ですが、それを実質的に価値としての理解をしている方は少ない様に思います。

 なぜならそれを理解するには、対比としての人類の歴史はあまりにも短すぎるのでしょう。それも了解の上での見解なのですが、変わらない事や変えない事にもっと価値観を見出してみても良いのではないでしょうか。

 自然破壊や環境へ変化をその時の経済の為だけに行う事はもしかしたら、その後の結末を早くしているだけなのかもしれません。

 変わらないでいる事、平凡でいる事はある種の安心感でもあります。人々にとって安心感こそが究極の価値と考えています。

 “凡”とは普通で変わらない事と捉えられていますが、それは難しい事だと日々感じています。

 

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