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2020年8月10日月曜日

民主主義の限界⁉

 PCR検査が何故に増えないかという疑問が多くの国民が持っていると解釈をしていますが、何故にPCR検査の機器も国産で多く生産をされ、更には欧米諸国にも輸出をしているのに国内での検査が進まないのでしょうか。

 答えは幾つかありますが、例えば検査をしてもその後にすぐに感染をしては意味が無いので全検査をすることはいずれにしても非効率的であるという意見や感染はある程度やむを得ない事であるので重症、感染死が多くならない限りそれはコスト的に大きな意味が無いという意見もあります。

 しかし、実際に分科会の参加メンバーの印象は厚生労働省の医技官が検査を多くを行う事で偽陽性が多く出ることを望まないという意味合いがあると感じているようです。つまり、偽陽性が出ることによりそこを隔離しなければならないとなるとそれに伴う問題が起きるという事です。

 過去にも感染病を誤判断し、隔離をした為に多大なる賠償が国に発生をしたという事例がありますので擬陽性を誤って隔離をした場合に後の賠償が伴う事を恐れているようです。

 仮に偽陰性が出た場合にはやはり不都合がありますが、隔離をするわけではないので賠償が伴う事はありません。

 しかし、これを恐れていては国民の健康を脅かすことより官僚自らの責任回避を重要視しているように感じますが、これは多くの国民が理解をしているように特措法の改正しなければそれもやむを得ないのかもしれません。

 『日本人の民度』と最も民度の低そうな某大臣が言ったように日本人独特の倫理観や国民性が過去にはあったようにも感じていましたが、現代にはモラルやマナーに反したような行動をする輩も多くいることも事実です。

 先日、渋谷で『マスク着用は民主主義に反する』といったわけの解らない連中の集まりがありましたが、理屈はトランプやブラジルの大統領の理屈と同じで新型コロナは単なる風邪だという理屈です。その上でマスク未着用で山手線を一周しようとする試みが行われようとしましたが実際にはJRの制止により回避をされました。

 ここでの問題は民主主義の理解を勘違いをしている輩が米国同様多いという事です。個人の自由の権利を担保しているのは責任と義務です。しかし、日本の民主主義というものは責任と義務にペナルティーが伴っていません。さらに意識している義務というのも教育と投票などの罰を伴わない義務と責任です。

 つまり、民度とは責任と義務まではいかないモラルとマナーを前提としているわけです。アメリカのように多民族、多宗教、多人種であれば考え方文化も色々あるので明文化された義務や責任とともにペナルティーも多くあり、更には法律でなくともその中での発砲事件などを含むしっぺ返しが多くあります。

 しかし、日本ではこれだけ多様性が出てきたにもかかわらず、相変わらず日本人の民度に頼っているケースが多々あります。現在の日本ではモラルを守らずに自分らの自由だけを主張する傾向にあります。そろそろ日本の民主主義にも限界が来たのではないかと感じる今回の新型コロナ禍です。

  国会議員は法律を作るために国民に雇われています。決して本人たちの名誉欲や顕示欲の為に雇われているわけではありません。指導力のないリーダーは早めに退出させ、国難に向かうための法律を創ることこそ本懐です。グダグダと夏休みなんか取っていないで出てきたほしいものです。
 

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