毎日暑い日がこれからも続くのかなア・・と思うと楽しみやら恐ろしいやらです。
なぜなら、暑い夏には太るタイプだからです。でも食べなければまいりますしね。
ところで、ライト兄弟の事を調べていたらある本の一行にひっかかってしまいました。
船でも何でも乗り物はある程度人が乗ってバランスがとられるようになっています。
兄弟が飛行機を設計しながら無人で飛ばして、最後に人が乗れるようにしようと
した時にどうしてもうまくいかなかった。無人では何度も上手くいっていたのにと
思いながら、実験を行っていた時に『そうだ、自分達で操縦をするのだからバランス
は取れていなくてもいいや!!』と思ったかどうか解りませんが、結果的には自らの
操縦を前提に飛ばしてみたら上手くいったという事です。
それを見ていた支援者が『どうせ自分達で操縦しなければいけないんだから完璧
じゃあなくてもいいんだよ。人生と一緒だ』とつぶやいたそうです。
現在の技術ではそれも考慮の上、自動操縦が可能でさらに操縦士の体重バランス
を気にしなくても良いくらい大きなものも多く、当てはまらないかもしれませんが基本
は人が乗って操縦をしてバランスがとれるように多くの乗り物は設計されているは
ずです。
ここで自らの教訓として『人生は安定飛行が前提の自動操縦ではない』と思い、
自分の人生は自らが操縦をして安定をさせなければいけないのだと改めて感じた
次第です。
人生や心には何時も足りない物があり、だから推進力が生まれるので、人生や心
を満たす物を自らの努力で見つけて安定した飛行を続けることは難しいと思います
が、それが普通の事で誰もがそうだと思えば気を張らずに人生を送れそうですね。
アンバランスで当たり前なんですよね。
ページビューの合計
2011年6月29日水曜日
2011年6月27日月曜日
周りに見えるもの。
美しさを哲学的に考察すると、善であり、快さであると以前にも述べましたが、それは
心の問題であるという事なのですが、美しい物や景色を見ると心が安らぎ、気持ちが
豊かになるという事です。
なにが言いたいかというと目に映っているものが美しいと心が安らぎ、醜い物や乱雑
な物を見ていると心までそうなってしまうと先人が伝えてきました。
震災後の瓦礫を100日以上たった今もそのままにしている事がどの様な結果になる
のかという事を国や行政、特に官僚には考えてほしい。
まだ今は心をおらずに頑張っている精神で支えられているものがいずれはあきらめ
や心の荒廃に繋がらないだろうかと心配しています。
美しい景色や物を見る事は現代の日本でさえ忘れがちであり、心の荒廃が始まって
いるように感じるのはつらいものです。自然を見る事を忘れ人工的なデジタルグッズ
ばかりを見ている日本人は心が美しくなれるのだろうか・・。
現代の日本人の目に映っているものは、知らず知らずに快楽だけを求めた無秩序な
社会ではないのだろうか。
欧米諸国のメディアが日本の『スーパークールビズ』についてのコメントをしているが
現在日本で進められているそのファッションについてあまり肯定的ではない。
米国紙の2紙では過ぎたカジュアルさには抵抗があると書き、英国紙に至っては節
電の名を借りた堕落だと書いています。
過去の日本から見た米国などのカジュアルなフランクさはたまにマユをひそめざるを
えない格好だと思っていた。しかし、今その米国からさえも今の日本のフランクさとい
うか、堕落は如何なものかと映っているようです。
私達は、女子高生のアニメ的化粧や男子高生のだらしない服装に慣れ過ぎてはいな
いだろうか・・。それが当り前になり、それが目に映る事により心の中も本来の心の置
場がずれていないだろうか・・。
ダイアモンドを美しく感じる事が純粋にできる事と持てるかどうかという事を同じレベル
考える人が多い。しかし、それは違う美しいとは必ずしも経済的価値と同レベルには
ない。美しいと考え、その先に経済的価値があると思うのです。
目に映る物を美しいと思う心の大切さを改めて感じ、早く被災地の瓦礫を撤去してもら
うように願う次第です。
心の問題であるという事なのですが、美しい物や景色を見ると心が安らぎ、気持ちが
豊かになるという事です。
なにが言いたいかというと目に映っているものが美しいと心が安らぎ、醜い物や乱雑
な物を見ていると心までそうなってしまうと先人が伝えてきました。
震災後の瓦礫を100日以上たった今もそのままにしている事がどの様な結果になる
のかという事を国や行政、特に官僚には考えてほしい。
まだ今は心をおらずに頑張っている精神で支えられているものがいずれはあきらめ
や心の荒廃に繋がらないだろうかと心配しています。
美しい景色や物を見る事は現代の日本でさえ忘れがちであり、心の荒廃が始まって
いるように感じるのはつらいものです。自然を見る事を忘れ人工的なデジタルグッズ
ばかりを見ている日本人は心が美しくなれるのだろうか・・。
現代の日本人の目に映っているものは、知らず知らずに快楽だけを求めた無秩序な
社会ではないのだろうか。
欧米諸国のメディアが日本の『スーパークールビズ』についてのコメントをしているが
現在日本で進められているそのファッションについてあまり肯定的ではない。
米国紙の2紙では過ぎたカジュアルさには抵抗があると書き、英国紙に至っては節
電の名を借りた堕落だと書いています。
過去の日本から見た米国などのカジュアルなフランクさはたまにマユをひそめざるを
えない格好だと思っていた。しかし、今その米国からさえも今の日本のフランクさとい
うか、堕落は如何なものかと映っているようです。
私達は、女子高生のアニメ的化粧や男子高生のだらしない服装に慣れ過ぎてはいな
いだろうか・・。それが当り前になり、それが目に映る事により心の中も本来の心の置
場がずれていないだろうか・・。
ダイアモンドを美しく感じる事が純粋にできる事と持てるかどうかという事を同じレベル
考える人が多い。しかし、それは違う美しいとは必ずしも経済的価値と同レベルには
ない。美しいと考え、その先に経済的価値があると思うのです。
目に映る物を美しいと思う心の大切さを改めて感じ、早く被災地の瓦礫を撤去してもら
うように願う次第です。
2011年6月22日水曜日
人間がリサイクル。
昨今の地金の相場の高騰も手伝い、地金や宝石の買い取り業も盛んに行われている。
その中で、そのままつぶされて素材に戻るものもあれば新品仕上げをしてリサイクル
品として、販売をされているものもありますが、この事には多少の抵抗もあります。
勿論、消費者の中には人の身に着けていた物を買うのは気持ちが悪いという方も
いらっしゃいます。
しかし、アンティークなりビンテージという名のもとにビジネスを元々なさっている人々
も以前からおりますし、アンティークとはどれくらい前の物で誰がつけていたかという
事も明確にせずにビジネスをしておりましたが、彼らに関しては宝石のプロではない
ので、ソフト面だけを強調してストーリーを作りながら生業としてきましたのですから
あまりそれを否定をされる事はありません。
宝飾品という事を前提とすると同じビジネスでもあまり肯定されない事も事実ですが
最近は古着ブームもあってか気にしない消費者も多くいるようです。
昨今の製品を前提にリサイクル品を売る事はある前提を設けなければ難しい面も
多くあると思います。一つには作りやデザインが優れている事、そして何よりも
貴金属、や天然宝石を使用している事などがあげられます。
昨今の製品は確かに天然宝石や貴金属を使用しているが、量産のデザインや造り
の物が多く、つぶしてしまった方が良いものも多くあることも事実です。
ただし、ある一定の大きさや質を維持しているダイアモンドに関しては何回もリサイ
クルされる事は自然の摂理にかなっております。
人間の手によりつくられたデザインや製品はリサイクルに関しての論議があっても
当然ですがダイアモンドその物に関してはその論議の外にあります。
人間の寿命はせいぜい長くて100年ですが、ダイアモンドの寿命は一億年や二億年
ではありません。当然何人という人々に渡っても当然ですし、そうならなければなら
ないのです。今までもそのように扱われてきました。だからこそ価値があるのです。
つまり、人間がリサイクルされている訳で、ダイアモンドがリサイクルされている訳
ではありません。
ここ百年で沢山のダイアモンドが発掘されてきました。これからが本当の対人間の
ダイアモンドの物語が始まるのです。ダイアモンドはこれからの人類の文化を伝える
為の道具であり、価値なのです。
思考の観点を変えるだけで沢山の物が見えてくるような気がしませんか?
その中で、そのままつぶされて素材に戻るものもあれば新品仕上げをしてリサイクル
品として、販売をされているものもありますが、この事には多少の抵抗もあります。
勿論、消費者の中には人の身に着けていた物を買うのは気持ちが悪いという方も
いらっしゃいます。
しかし、アンティークなりビンテージという名のもとにビジネスを元々なさっている人々
も以前からおりますし、アンティークとはどれくらい前の物で誰がつけていたかという
事も明確にせずにビジネスをしておりましたが、彼らに関しては宝石のプロではない
ので、ソフト面だけを強調してストーリーを作りながら生業としてきましたのですから
あまりそれを否定をされる事はありません。
宝飾品という事を前提とすると同じビジネスでもあまり肯定されない事も事実ですが
最近は古着ブームもあってか気にしない消費者も多くいるようです。
昨今の製品を前提にリサイクル品を売る事はある前提を設けなければ難しい面も
多くあると思います。一つには作りやデザインが優れている事、そして何よりも
貴金属、や天然宝石を使用している事などがあげられます。
昨今の製品は確かに天然宝石や貴金属を使用しているが、量産のデザインや造り
の物が多く、つぶしてしまった方が良いものも多くあることも事実です。
ただし、ある一定の大きさや質を維持しているダイアモンドに関しては何回もリサイ
クルされる事は自然の摂理にかなっております。
人間の手によりつくられたデザインや製品はリサイクルに関しての論議があっても
当然ですがダイアモンドその物に関してはその論議の外にあります。
人間の寿命はせいぜい長くて100年ですが、ダイアモンドの寿命は一億年や二億年
ではありません。当然何人という人々に渡っても当然ですし、そうならなければなら
ないのです。今までもそのように扱われてきました。だからこそ価値があるのです。
つまり、人間がリサイクルされている訳で、ダイアモンドがリサイクルされている訳
ではありません。
ここ百年で沢山のダイアモンドが発掘されてきました。これからが本当の対人間の
ダイアモンドの物語が始まるのです。ダイアモンドはこれからの人類の文化を伝える
為の道具であり、価値なのです。
思考の観点を変えるだけで沢山の物が見えてくるような気がしませんか?
2011年6月18日土曜日
始まりと終わり。
震災以降、反原発、脱原発といった言葉を耳にする事が多くなりました。
反原発派はとにかく原発反対、脱原発には緩やかに原発廃止とか、次の時代の
エネルギーの開発を模索するイメージがあります。
物事は誕生する事がいわゆる死滅へのスタート、言葉は強烈かもしれませんが
地球規模であれ生物レベルであれ、人類レベルであれ、それが自然の摂理である
事を前提として考えるべきなのでしょう。
人類は進化の為に色々なものを開発してきました。原発においてもそうでしょう。
多くの場合は快楽を求めての結果で、生存する為の進化ではなくなってきている事
には振り向く時間も必要なのではないでしょうか。
地球が生まれて、その中で進化をしてきたものは多くありますが、それはイコール
終焉への道程であることは避けがたい事実あり、終焉を速めている事なのです。
快楽を前提とした進化は終焉への道程を早め、生存の為の進化は終焉を迎える
時期を遅くする事野のではないかという事を伝えたいのです。
原発がある事により、世の中は便利になり、それを否定するものではありません。
しかし、人類の歴史を、地球の歴史を少しでも長くするか、太く短くするかは其々の
考え方ではありますが、我々が乗っている船は一つです。そろそろ結論を出さねば
ならないのではないでしょうか。
個人レベルでは、おいしくうまい物を楽な生活をしながら、太く短く生きる事も自由
でしょうけれども、大きな意味ではどちらかを選ばなければいけないのでしょう。
いずれにしても終焉へのアプローチは変わりませんから、もし細く長く歴史を刻むの
であれば、脱原発でしょうし、太く短くても快楽を選ぶのであれば、原発推進でしょう。
反原発だけでは答えにならない事も認識しなければなりません。エネルギーが生き
ていく上では必要な事も事実で、極論ではありますが寒くて凍え死んでも歴史は短く
なります。
節制しても快適に過ごす事は出来ます。既に始まっている歴史は終焉の迎え方だけ
が課題です。其々の考えが将来の為に何を残すのかを左右する訳ですから、大きな
気持ちでこれを機会に考えてみたらどうでしょうか。
ダイアモンドには変化がありません。皆さんの歴史を伝えていく大きな意味での歴史
の伝承師でもあります。こじつけのようですが周りに象徴として置いてみませんか?
反原発派はとにかく原発反対、脱原発には緩やかに原発廃止とか、次の時代の
エネルギーの開発を模索するイメージがあります。
物事は誕生する事がいわゆる死滅へのスタート、言葉は強烈かもしれませんが
地球規模であれ生物レベルであれ、人類レベルであれ、それが自然の摂理である
事を前提として考えるべきなのでしょう。
人類は進化の為に色々なものを開発してきました。原発においてもそうでしょう。
多くの場合は快楽を求めての結果で、生存する為の進化ではなくなってきている事
には振り向く時間も必要なのではないでしょうか。
地球が生まれて、その中で進化をしてきたものは多くありますが、それはイコール
終焉への道程であることは避けがたい事実あり、終焉を速めている事なのです。
快楽を前提とした進化は終焉への道程を早め、生存の為の進化は終焉を迎える
時期を遅くする事野のではないかという事を伝えたいのです。
原発がある事により、世の中は便利になり、それを否定するものではありません。
しかし、人類の歴史を、地球の歴史を少しでも長くするか、太く短くするかは其々の
考え方ではありますが、我々が乗っている船は一つです。そろそろ結論を出さねば
ならないのではないでしょうか。
個人レベルでは、おいしくうまい物を楽な生活をしながら、太く短く生きる事も自由
でしょうけれども、大きな意味ではどちらかを選ばなければいけないのでしょう。
いずれにしても終焉へのアプローチは変わりませんから、もし細く長く歴史を刻むの
であれば、脱原発でしょうし、太く短くても快楽を選ぶのであれば、原発推進でしょう。
反原発だけでは答えにならない事も認識しなければなりません。エネルギーが生き
ていく上では必要な事も事実で、極論ではありますが寒くて凍え死んでも歴史は短く
なります。
節制しても快適に過ごす事は出来ます。既に始まっている歴史は終焉の迎え方だけ
が課題です。其々の考えが将来の為に何を残すのかを左右する訳ですから、大きな
気持ちでこれを機会に考えてみたらどうでしょうか。
ダイアモンドには変化がありません。皆さんの歴史を伝えていく大きな意味での歴史
の伝承師でもあります。こじつけのようですが周りに象徴として置いてみませんか?
2011年6月16日木曜日
美しい!!
先日、取引先より新たなデザインの要請があり、コンセプトを離れない物を心掛け
ようとは思いつつも美しいと思えるようなものを創作したいと思いましたが・・・。
(最近美しいと思うようなものを見ていないなあ~)と考えながら街中を歩いてみると
自分が美しいと思うものが街中には全然見つからない事に気がつきました。
美しいという概念は哲学的には『善』であったり『快い』事を感じる心という事ですが
自分には美しさを感じる心がないのかなぁ…と思ったり。
しかし、今の街中に美しいと感じるものがあるのかな?・・とも思います。ましてや
皆もそれを感じるのかな?・・と思ったりもします。
機能的で合理的な綺麗なものはあるかもしれませんが、『美しい』と思うようなもの
はたして今の町中にあるのかなあ・・? 疑問符だらけです。
美しいと感じる心は皆それぞれだとは思いますが、昨日、旧来の友人でありお客様
でもある人が来店した機会にたまたま手元にあった5ctの2つのダイアモンドをお見
せしました。
彼女はダイアモンドが大好きで、決してグレード見てダイアモンドを買う事はありま
せん。自分が本当に美しいと思って心を動かされたものだけを購入します。
『大きくて綺麗だけど、心が動かないわね』彼女の言った一言は非常に胸に響きま
した。見た目の綺麗さではなく、心が動くものが『美しい』のだと感じ、哲学的にいう
『善』とか『快い』という事は心で感じるものであるのでしょう。
つまり、美しさを感じるには心にゆとりもなければならないでしょうし、感じる心が必要
なのでしょうね。
最近は忙しすぎたのかもしれないとつくづく反省しながらも、以前は忙しくても海外を
飛び回る機会は多かったので切り替えがもっとしやすく、其々の国に入る毎に見る
もの聞く物を素直に感じる心があったのかもしれない。心掛けなくてはと思う最近です。
ようとは思いつつも美しいと思えるようなものを創作したいと思いましたが・・・。
(最近美しいと思うようなものを見ていないなあ~)と考えながら街中を歩いてみると
自分が美しいと思うものが街中には全然見つからない事に気がつきました。
美しいという概念は哲学的には『善』であったり『快い』事を感じる心という事ですが
自分には美しさを感じる心がないのかなぁ…と思ったり。
しかし、今の街中に美しいと感じるものがあるのかな?・・とも思います。ましてや
皆もそれを感じるのかな?・・と思ったりもします。
機能的で合理的な綺麗なものはあるかもしれませんが、『美しい』と思うようなもの
はたして今の町中にあるのかなあ・・? 疑問符だらけです。
美しいと感じる心は皆それぞれだとは思いますが、昨日、旧来の友人でありお客様
でもある人が来店した機会にたまたま手元にあった5ctの2つのダイアモンドをお見
せしました。
彼女はダイアモンドが大好きで、決してグレード見てダイアモンドを買う事はありま
せん。自分が本当に美しいと思って心を動かされたものだけを購入します。
『大きくて綺麗だけど、心が動かないわね』彼女の言った一言は非常に胸に響きま
した。見た目の綺麗さではなく、心が動くものが『美しい』のだと感じ、哲学的にいう
『善』とか『快い』という事は心で感じるものであるのでしょう。
つまり、美しさを感じるには心にゆとりもなければならないでしょうし、感じる心が必要
なのでしょうね。
最近は忙しすぎたのかもしれないとつくづく反省しながらも、以前は忙しくても海外を
飛び回る機会は多かったので切り替えがもっとしやすく、其々の国に入る毎に見る
もの聞く物を素直に感じる心があったのかもしれない。心掛けなくてはと思う最近です。
2011年6月10日金曜日
なるほどね。
最近、ある展示会にダイアモンドでレッドとブラウンのパートカラーの物を出品し、
如何に珍しいものかを説いてみてある事に気がつきました。
気がついたというより我自身よくこれまでそんな当り前の事に気がつかないで来た
と、あきれるやら嘆かわしいやらです。
あるお客様が『ダイアモンドの事は名前くらいしか知らないし、見た事もなかった』と
言われた時に、私自身が皆がダイアモンドを見た事がある事を前提にビジネスを
してきたので唖然としました。
それを聞いて(そっかア・・。赤いダイアモンドがある事を知らない人にそれが稀で
ある事を説明しても、前提として興味も経験もなければその事に感心する事もない
んだ)考え込んでしまいました。
前提がなければ何の条件、結果も存在も意味がないんだ・・。と思いつつほとんどの
宝石商は自らの知識や経験を前提に商売をしているのでお客様に必ずしも宝石の
価値や魅力を伝えれていないのではないかと考えました。
つまり、前提をお客様に持って頂かない限りは商売は『のれんに腕押し』状態な訳
です。確かに、同じ宝石業界にいるのだから解っているだろうと話した事がチンプン
カンプンなことが業界内でもあります。
4Cグレーディングが価格を決めると未だに思っている人も多くいる事でも解るように
自らも理解していない事を前提に宝石の価値等を伝える事はいまや無理であり、
以前のようにお客様にお金があまっていない限りその上で商売をする事は難しいの
ではないだろうか。
宝石は贅沢な装飾品であるということのみが前提になっている現代では商売は難し
く、本来の価値や意味を消費者・・、もっと言えば販売員に理解してもらわなければ
今後も経済環境に関係なく難しくなるのでしょう。
簡単な事ですが、相手にこちらの伝えようとする事の前提をまず理解してもらうと
いった当り前の事をやらなければいけない。当り前のことですよね。
外国人に真意を伝えようとするにはその国の言葉を覚えるか、日本語を覚えてもら
うか、通訳を雇わなければいけないのと一緒ですね。
『何カラットがいくら』といった事をいくら叫んでみてもそれが何たるかを理解していな
い人には何にも意味がない。
以前は『1カラットのダイアモンド』は金持ちの象徴でいつかは手に入れたいと多くの
人が思っていました。だから何カラットがいくらというフレーズが役に立ちましたが
今の若者達にはその存在も意味を持たないようです。
啓蒙活動があって初めて次の行動の意味が出てきます。当り前の事ですよね。
『見た事もなかった』お客様にいくらダイアモンドの色の希少性を説いても何の心にも
響きません。その言葉に『なるほどね』
如何に珍しいものかを説いてみてある事に気がつきました。
気がついたというより我自身よくこれまでそんな当り前の事に気がつかないで来た
と、あきれるやら嘆かわしいやらです。
あるお客様が『ダイアモンドの事は名前くらいしか知らないし、見た事もなかった』と
言われた時に、私自身が皆がダイアモンドを見た事がある事を前提にビジネスを
してきたので唖然としました。
それを聞いて(そっかア・・。赤いダイアモンドがある事を知らない人にそれが稀で
ある事を説明しても、前提として興味も経験もなければその事に感心する事もない
んだ)考え込んでしまいました。
前提がなければ何の条件、結果も存在も意味がないんだ・・。と思いつつほとんどの
宝石商は自らの知識や経験を前提に商売をしているのでお客様に必ずしも宝石の
価値や魅力を伝えれていないのではないかと考えました。
つまり、前提をお客様に持って頂かない限りは商売は『のれんに腕押し』状態な訳
です。確かに、同じ宝石業界にいるのだから解っているだろうと話した事がチンプン
カンプンなことが業界内でもあります。
4Cグレーディングが価格を決めると未だに思っている人も多くいる事でも解るように
自らも理解していない事を前提に宝石の価値等を伝える事はいまや無理であり、
以前のようにお客様にお金があまっていない限りその上で商売をする事は難しいの
ではないだろうか。
宝石は贅沢な装飾品であるということのみが前提になっている現代では商売は難し
く、本来の価値や意味を消費者・・、もっと言えば販売員に理解してもらわなければ
今後も経済環境に関係なく難しくなるのでしょう。
簡単な事ですが、相手にこちらの伝えようとする事の前提をまず理解してもらうと
いった当り前の事をやらなければいけない。当り前のことですよね。
外国人に真意を伝えようとするにはその国の言葉を覚えるか、日本語を覚えてもら
うか、通訳を雇わなければいけないのと一緒ですね。
『何カラットがいくら』といった事をいくら叫んでみてもそれが何たるかを理解していな
い人には何にも意味がない。
以前は『1カラットのダイアモンド』は金持ちの象徴でいつかは手に入れたいと多くの
人が思っていました。だから何カラットがいくらというフレーズが役に立ちましたが
今の若者達にはその存在も意味を持たないようです。
啓蒙活動があって初めて次の行動の意味が出てきます。当り前の事ですよね。
『見た事もなかった』お客様にいくらダイアモンドの色の希少性を説いても何の心にも
響きません。その言葉に『なるほどね』
登録:
投稿 (Atom)