ダイアモンドの誕生に触れることは難しいと思っています。それは、ダイアモンドの誕生は現代人の誕生に比例するからと考えています。
勿論、鉱物学的には後にダイアモンドと呼ばれるようになる炭素の急激な結晶化されたものはそれ以前に存在しますが、ダイアモンドという価値を持った美しい鉱物は人類に認識をされて初めて存在をするようになるわけです。
紀元前から何らかの鉱物としての認識はされていましたが、現在のインドで採掘が行われるようになり、その存在に人類により付加価値を享受されダイアモンドとしての体をなすことになります。
ある時は従属者から権力者に、ある時は商人から権力者へと物語と共に献上され、それを所有することの優越性が、権力の証として示されるようになり、その意味が確立をされのです。
つまり、その物にいかな価値があるかという物語を常に創作をする人間がいて初めてその価値が維持されるのです。
現代はその市場性もあり、一定の価値判断や価格判断の基準もあり,今の存在になっています。しかし、原点はその存在価値を評価し、高め行く創作性がなければ徐々にその輝きは色あせていきます。
現代のジュエリービジネスは実用品と同じようなレベルで行われ、価格競争も実用品と同じように行われてきましたから本来の価値は薄れてきました。
しかし、ダイアモンド単独の価値というものは大前提として自然が育んだ価値というものが付与された価値ですから、それが前提にあり、現代のラボグロン問題にも一定の結論が出たわけです。装飾品としての価値だけであれば、ラボグロンでの良いわけで、他の材料であってもよいわけです。
ダイアモンドの価値というのは自然からの贈り物であり、人類がそこに価値を見出し、価値を付与するだけの意味合いがあることが前提です。
つまり、ダイアモンド価値というものは人類が自然を崇拝したうえでの価値が原点であり、決して実用品ではないのです。その価値をどう評価するかということは現代人の文化度や付加価値に対する考え方なのです。
ダイアモンドの希少性、耐久性、美観性、携帯性、換金性という本来の価値と現代の金融、および資産というものと同様にどのような価値を人類が創作するのかというところにダイアモンドの価値というものは起点するのです。
人類が自然に対しての崇拝をしたうえでの創作性の価値であり、それを怠ることは価値を自ら失わせ、人類が持つダイアモンドの意味自体をなくさせるのです。
0 件のコメント:
コメントを投稿