森善五輪委員会会長の蔑視発言を皮切そこいら中で『ジェンダー・フリー』を目にしたり耳にしたりする機会が多くなった様な気がします。
そもそも単純性別だけであれば『SEX』となるのですが、『GENDER』となるとどのように解釈をすればよいのだろうかと考え、結果的にあらゆることを前提に男女というのはあるよという考え方のはずです。
その男女の対応差を埋めていこうという考え方が『ジェンダー・フリー』という事なわけですが、男女の区別とその特性を無視するような考え方は基本的に存在をしてはいけないのだろうと考えます。
つまり、それぞれに地域性や生活環境においての男女の区別というものは当然あってしかるべきであってその処遇において差があってはならないという事だと思います。
そんな中で米国の環境というのは歴史上も男女の区別のはっきりしている国で、『レディース&ジェントルマン』というあまりにもはっきりと男女を区別している国はありません。
男女の区別と差別を勘違いしている論争が日本には存在しているような気がします。さらに言えば世界から非難をされているという日本の男女差別問題をメディアが取り上げているようですが、果たして本当にそうだろうかと考えます。
日本の多くの女性は本当に外に出て働き、場合によっては政治の世界へ出ていきたいと考えるのだろうか?勿論そういう人もいるでしょうし、そのチャンスを奪い取ってはいけないと思います。
ただ日本の様な農耕民族は古くから男女の働く分野をそれぞれに向くように合理的に分けており『おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは川へ洗濯へ』という風にそれぞれの特性に合った役割を担ってきました。それを果たして差別であると考えるべきだろうか?
ただ、その処遇に差があってはならないとは思います。しかし、同じようなことをさせるべきだとか、すべきであるという考え方は明らに違っていると思いませんか?
世界へ回って感じることは多くの世界中の男性が『日本女性』のきめ細かさや優しさを褒めたたえてくれます。それは古来からある日本の環境や生活習慣で培われたものに他ならないのでしょう。
つまり、世界中での統計としての女性の政界への進出率や社会への進出率などをすべての国に当てはめることではないし、余計お世話なのだろうと考えます。
皆が勘違いをしてはならないのは差別と区別の違いや、世界の基準に合わせることでもなく、その違いの評価に差があってはならないという事です。つまり、男性でも女性に向いている仕事が得意な人もいればその逆もあるでしょう。そこに差別や偏見があってはならないという事です。
多くのメディアがそこを勘違いしているのではないかと思われるような報道が昨今目につきます。