秋田の大曲の花火大会が2年ぶりに開催されました。
花火職人が『このまま花火が必要とされなくなったらどうしよう』考えていたという事をインタビューでいっていました。
私自身この言葉に反応したのは、コロナ禍において出かけることも集まることも少なくなりジュエリーを身に纏う機もなくなり、更にはファッションそのものもフォーマルが減り、カジュアルなものになっていく現代において『ジュエリーは大丈夫なのだろうか?』と考えたからです。
ダイアモンドそのものにおいては資産性をはじめ、ある種の特殊性や用途があるのでそれほどの心配はしていないのですが・・・。
ファッションジュエリーにおいてはアクセサリーでも良いではないかという人々も多くいます。しかし、本当にアクセサリーで良いのだろうか?
花火にしても単純に上がっているだけの発煙筒や照明弾で済む話ではないだろう。勿論それとは一緒になりませんが、実用性だけではない情緒的な面というものを大きく考慮すればジュエリーそのものも退化することはないのだろうと考えrます。
花火にj関してもジュエリーに関しても実生活の中であってもなくてもよいものに捉えられそうですが、実際には人々は感動し、季節を感じ、そしてその創造性を称賛するのです。
現実の問題としてはジュエリーに関して人々はそれほどの感動も想像性への称賛もありません。何故なら、あまりにもありきたりのデザインや価格に走ったもの、そして値引き等の販売方法が消費者の感動やデザインの創造性への称賛の機会を奪ってきたからです。
そう考えると花火の職人たちは毎年、人々を感動させるべき努力を重ねてきたような気がします。それゆえに人々は待ち望み、新たな仕掛けの花火に感動し、その創造性に称賛を与え、日々の日常を忘れさせてくれたそのショーに感謝もするのでしょう。
ダイアモンドそのものに関しては自然が創造し、その美しさは人々に感動を与え、更なる輝きを増す精神性があり、そのものを鈍らせる権利には人間にはないのです。ただ、人々はそれを曇らせたり、輝かせたりする力は持っているのです。人間はその力の使い方を間違ってはいけないのです。